墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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平原遺跡1号墓(曽根遺跡群 平原遺跡、平原弥生古墳) 福岡県福岡市有田

前回のワレ塚古墳の600mほど北に、平原遺跡があります。

 

歴史公園として整備された広場の隅に、平面が長方形の墳墓が。(東側から)

 

平原遺跡1号墓は、日本列島内で最大の鏡(内行花文鏡)5面を含む、40面の鏡が出土した、弥生時代終末期の墳丘墓です。

 

北側から。

 

上記右の説明板。

国指定史跡 曽根遺跡群 平原遺跡
昭和57年(1982)10月4日指定
平成12年(2000)9月6日指定
昭和40年(1965)と昭和63年~平成11年(1988~1999)に発掘調査され、弥生時代中期初頭の竪穴住居跡7棟、壺棺墓1基・木棺墓4基、弥生時代後期の墳丘墓3基・大柱遺構3基・特殊建物跡1棟・古墳時代前期の円墳2基・土壙墓12基・時期不詳の掘立柱建物3棟などが発見された。
このうち、弥生時代終末期の1号墓は14m×10.5mの長方形上の平面形で、幅1.5m~3.0mの周溝で区画し、排水溝を持った墓である。主体部である広さ4.5m×3.5mの墓壙中央には長さ3.0m、幅0.7m~0.9mの割竹形の木棺1基が納められていた。棺の内外から銅鏡40面、ガラス勾玉3点・管玉30点以上・連玉886点・丸玉約500点・小玉482点、メノウ管玉12点、ガラス耳璫(じとう)2点、水銀朱、鉄製素環頭大刀1本などが出土した。
特に直径46.5㎝の古代で世界最大の超大型内行花文鏡5面を含む銅鏡などの豊富な副葬品から、1号墓は巫女的な性格をもった伊都国の女王墓と推定される。
なお、超大型内行花文鏡を八咫鏡として「日本書紀」などにみられる大日孁貴(おおひるめのむち)の墓と考える原田大六先生の説がある。
前原市教育委員会

 

"超大型内行花文鏡”は伊都国歴史博物館で拝見。圧倒されました。

伊都国歴史博物館 福岡県糸島市井原 - 墳丘からの眺め

 

平原遺跡1号墓の北西隅を。

 

別の説明板

平原遺跡1号墓(国史跡 曽根遺跡群)
平原遺跡1号墓は昭和40年(1965)、植樹溝の掘削時に大量の鏡が出土したことから発見され、故・原田大六氏らによって緊急的に発掘調査が行われました。墳丘は全て失われていましたが、割竹形木棺を主体部にもつ方形周溝墓であることが確認されました。棺の内外からは、ガラス製や石製の玉類、鉄製素環頭大刀などとともに、計40面もの青銅鏡が出土しました。うち5面は直径46.5mの内行花文鏡で、これらの出土品は全て国宝に指定されています。
中国の史書、三国志の魏志倭人伝には、伊都国には歴代の王がいたことが記されており、平原遺跡1号墓は最後の伊都国王の墓であると考えられます。
調査主任であった原田大六氏は、周溝とその周辺から検出された対になる柱穴を鳥居状の構築物の痕跡であると考えました。一の鳥居は被葬者を拝するとともに日向峠を遥拝し、二の鳥居は高祖山を遥拝するものであり、古代の人々が両者を神聖視するとともに、飯場峠から高祖山北麓に移り変わる日の出の位置により農事に関わる観測が行われていたとも考えました。なお、原田大六氏により井戸とされていた遺構は、その後の調査で祭祀に用いる大柱を据えたものと考えられています。
糸島市役所 文化課

 

実測図部分。埋葬姿勢の足元方向の延長に日向峠があります(長い矢印)

 

墳丘を西側から。墳頂の先が日向峠になると思います。


墳丘を南西側から。墳頂の右肩奥が高祖山(たかすやま)でしょう。

 

墳丘を南側から。



その背面側に、出土品を示したタイル壁がありました。

 

高祖山の山の端からの日の出前の写真も。

 

現地には他にもいくつかの説明板が。

平原弥生古墳
ここはかつて塚畑と呼ばれていました。
井出信英さんが農作業中に、突然、多量の銅鏡片などが出土。昭和40年(1965)1月のことでした。さっそく2月~5月にかけて前原在住の考古学者原田大六氏を調査主任として発掘調査が進められました。
驚きの発見の中で、特に注目を集めたのが、39面にのぼる銅鏡群でした。さらに、日本最大の白銅鏡については、原田大六氏は伊勢神宮の御神体である八咫鏡(やたのかがみ)と考察されました。それは後漢尺で測ると直径2尺(46.5㎝)、その周囲は八咫(145㎝)の寸法を持っていること、さらに「延喜式」や「皇大神宮儀式帳」に記された八咫鏡を納めた「樋代(ひしろ)」の寸法が平原大鏡の径に近いこと、「御鎮座伝記」記載の鏡の特徴が「八頭花崎八葉形也」から平原大鏡こそ伊勢神宮の「八咫鏡」と同型鏡であると結論づけられました。
さらに、原田大六氏は墓の副葬品に武器が少ないこと、装身具が多いことなどから被葬者を女性と推定され、そして、鏡・大刀・勾玉という「三種の神器」が副葬されていたことから「天照大神」(神格名・大日孁貴:おおひるめのむち)の墓であると確信されました。
伊都国こそ「天皇の故郷」とする原田大六説の根拠は、ここ平原弥生古墳で見つかった「三種の神器」が東遷して大和に至ったと推測されたものです。
なお、この遺跡の発掘調査報告書は、原田大六著「平原弥生古墳 大日孁貴の墓」として発行されています。(後略)

 

一番新しい説明板はコスモス畑のそばに。

アマテラスの眠る墓「平原弥生古墳」
●日本最古の王墓
平原遺跡が発見されたのは昭和40年(1965)1月のこと。地元の考古学者・原田大六の指揮下に調査が行われ、周溝墓5基が発掘されました。特に1号墓(平原弥生古墳)からは直径46.5㎝の白銅鏡(日本最大)4面を含む39面の銅鏡片の他、勾玉、鉄刀等が出土し、2世紀半ばの弥生時代後期の王墓とわかりました。2006年に出土品は全てが国宝に指定され、伊都国歴史博物館に展示されています。
●日本史上最大「八咫の鏡」
この遺跡で最も特徴的な出土品は4面の「内行花文八葉鏡(大型内行花文鏡)」です。原田大六はこれを天皇家の三種の神器の同型鏡と考えました。
現在皇室が所有する八咫の鏡は伊勢神宮にあり、これまで一度も公開されていません。しかし伊勢神宮に伝わる記録と平原出土の大鏡は、大きさも形状もぴたり一致しています。
●被葬者は誰なのか
副葬品の特徴から平原弥生古墳の被葬者は女性で、原田大六は古事記に記された玉依姫(たまよりひめ)だと比定しました。玉依姫は神格名を「大日孁貴(おおひるめのむち)」、神名を天照大御神と記された女性で、当時伊都国にいた倭の女王であり、初代神武天皇の母親です。
被葬者が女性で時代も近いことから「卑弥呼の墓」という説もありますが、平原弥生古墳は卑弥呼より約100年時代が早く、地理的状況も魏志倭人伝とは異なります。
●日本国家の起源は糸島にあった
八咫の鏡が出土し、初代天皇の母が埋葬されたことから、原田大六はここ平原が天皇家誕生の地であると説きました。さらに古事記の「天孫降臨」伝説について、原田大六は平原弥生古墳の出土品や、南東にある日向峠などの地名から「舞台は宮崎の高千穂ではなく、古代伊都国である」と考えました。
それでは伊都国に栄えた王権はどこに行ったのでしょう。原田大六は倭国を治める仕組みを再構築するため、国の中心と近畿地方に移したと説いています。

●東側の山々との関係
平原弥生古墳はまっすぐ日向峠を向いており、10月20日には日向峠から昇る朝日が被葬者を照らします。原田大六は大鏡が日迎え神事に用いられたと考えました。10月20日前後は現在も各地の神社で神嘗祭が行われている特別な日です。
さらに平原弥生古墳の東側に連なる高祖山系の峰々は、日の出の位置により田植えや収穫の時期を知る目印になっていました。「クシフル山」と呼ばれる山もあり、神話との関係性を示しています。
●原田大六の功績
平原弥生古墳の発掘を指揮し、その研究に生涯を捧げた原田大六は、大正6年、現在の糸島市前原に誕生。糸島高校で歴史部を創設した後、考古学の道を志して九州大学教授の中山平次郎に師事。激しい気性から「ケンカ大六」とも呼ばれましたが、実際は思いやりと愛情にあふれた人物でした。その研究は多数の著書や平原弥生古墳発掘調査報告書にまとめられ、伊都国は天皇の故郷であると実証しています。
伊都国平原王墓保存会について(以下略)

 

道路(平原国宝通り)の東側に広がっていたコスモス畑。


左が高祖山、中央やや右の低いところが日向峠(だと思います)