2019年12月15日まで開催されていた朝霞市博物館の企画展を終了間際に見に行った。
第34回企画展は「朝霞から見る古墳の出現~方形周溝墓から古墳へ」
入館無料。なんと撮影可(前回常設展を見に来たときは不可だった)
入口前のケースには柊塚古墳出土の埴輪2点。
柊塚古墳は朝霞市に現存する6世紀前半の前方後円墳。家形埴輪も出ている。
展示の全体構成は、遺跡や遺物とその解説を通して、弥生時代から古墳時代へと移り変わっていく時期の関東エリアのイメージが実感できる、非常に興味深い内容だった。
最初の解説は「古墳時代の幕開け」
埼玉エリアでは、古墳時代の幕を開けた墳墓形態は前方後円墳ではなかった。朝霞地域で著名な柊塚古墳は古墳時代後期になってから築かれている。
時代や地域にかかわらず安定的に出土する土器は研究が進んでいて、形や文様の特徴で年代や地域がわかる”時空の物差し”となっている。
たとえば古墳出現期から古墳時代前期にかけては、畿内系二重口縁壺の拡散によって近畿地方発の動きが列島各地に広がっていく様子がわかるという。
当時、前方後円墳が造られていなかった当地域にあっても、出土した土器によって古墳時代幕開けを把握することができ、また人びとの移動や地域間交流を窺うことができるそうだ。
東日本では古墳時代前夜の3世紀前半に、東海地方西部の土器とともに前方後方墳の墳墓がひろがっていった。その時期から前方後円形がひろがっていた西日本とは対照的とのこと。
東日本にひろがった前方後方という墳形は方形周溝墓に求めることができるという。
弥生時代の方形周溝墓の溝の一部が陸橋となり、突出し、区画されて前方後方墳の前方部へと発達していった過程を追っていける事例もある。
実際、各地で出現する前方後方形墳墓の多くは、方形周溝墓群の中から生まれたかのように墓域を共にしており、本展覧会では事例を通して、東日本で前方後方墳が卓越する様相を見ていけるよう構成されていた。
方形周溝墓の実測図例。壺は周溝の四隅から出ている。
陸橋ができると陸橋の上にも壺が。
墳形の広がり~定型的な前方後円墳出現前夜~を示すパネル(大阪府立近つ飛鳥博物館2017年資料から)
前方後円形=瀬戸内海沿岸、前方後方形=琵琶湖以西、四隅突出形=日本海沿岸と、各形式が「卓越する」エリアを示す。
関東南部エリアでは、弥生時代後期に東海地方東部・東遠江地域を故地とする人々が東進してくる。彼らは東京湾岸地域を抜け、武蔵野台地東端に拠点を作り、さらに板橋、和光、朝霞等へと荒川を上るように台地縁辺部に拠点を伸ばしていった。
さらに古墳出現前夜、そのルートを覆うように伊勢湾岸地域からの人の動きがあり、荒川流域各地の古墳出現に関係して「前方後方形の世界」を拡げた。
が、同時に前方後円形の墳墓も見られるなど、墳形の広がりは重層的になるそうだ。
会場には下記のAからIまでの各遺跡の出土品が展示されていた。
解説パネルがある壁の対面には、まずは権現山古墳群出土の土器。
墳丘を囲む周溝から出土。
後列中央2点は逆さに置かれた壺だが、どちらも底に孔(底部穿孔)がある。一方は焼成前でもう一方は焼成後。葬送の儀式の後に底を割っていたものが、儀式用に初めから底に孔があいた壺がつくられるようになる。
墳墓の時期は3世紀代の弥生時代から古墳時代へ移る頃と考えられるそうだ。
2号墳出土の壺はきれいな丸み。
7号墳から出土した壺棺と推定される壺。周溝斜面の土壙から検出。
現地は一昨年に訪ねた。
その隣には西五反田遺跡と前野兎谷遺跡(どちらお板橋区・古墳時代前期の遺跡)の出土品。
西五反田遺跡の1号墳は前方後方形(方形周溝墓に突き出し部がつく)
南関東系在来の縄文施文がある一方、壺の櫛描文や壺・高坏の器形等には東海西部系譜の特徴が見て取れるそうだ。
1号方形周溝墓出土の壺。
千葉県木更津市の高部30・32号墳の出土物。
どちらも東日本最古級の前方後方形墳墓だった。残してほしかった…
出土した壺棺。 32号墳周溝内D土壙から出土。
32号墳の墳頂部では東海西部系の高坏がまとまって出土、30号墳では主体部直上で手焙形土器が、周溝から東海西部系の高坏等が出土した。
これらも弥生から古墳へと時代が移行する3世紀代の築造と考えられている。
32号墳周溝から出土した手焙形土器をアップで。
続く展示室が圧巻だった。