墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

塚の川古墳公園 山口県山陽小野田市大字小野田

前回の月崎岬古墳を味わった後は、一旦宇部空港の北側を通り過ぎて山陽小野田市の古墳を2か所訪ねた。

グーグルマップで南東側の竜王中学校側に誘導されたがそこからの道は無く、西側からアプローチ。 

 

枝道のさらに枝道に入る手前のスペースに車を停めさせていただいて、歩道を進んだ。

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史跡・塚の川古墳公園と刻まれた立派な石碑が現れた。

 

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古墳公園には横穴式石室を持つ円墳が一基。

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柵の間から内部を。 

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羨道の側壁も大きい。

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見事な奥壁をフラッシュで。須恵器のレプリカ(?)も配備。

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 墳丘を一回り。

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背面側から。斜面に造られていた。 

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一部欠けてしまったが詳細な説明板があった。須恵半島とか竜王山とか、地名が気になった。

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縄文時代の遺跡が須賀の砂堆中で発見されたことから人々の生活の舞台は海浜の砂堆か丘の上だったようです。
弥生時代の遺跡は数カ所発見されています。人々は農耕生活を中心とし、本山・赤崎・野来見から有帆へと広がっていきました。
古墳時代前期の遺跡は、現在のところ発見されていませんが、中期になると竜王山東側の給料に大判山古墳が築かれ、人々は、本山・焼野・鳥取一帯に住みました。
後期になると古墳が盛んに築造され始めました。現在の旧厚狭郡地方には古墳が約百カ所発見されていますが、その半数の51個は小野田市に散在し、しかもその大部分は竜王山周辺に密集しています。そのほとんどの古墳は小規模な横穴式石室をもつ円墳でしたが、この塚の川古墳は、墳丘・石室規模などからみて須恵半島でも有数の古墳です。また、竜王山南~東側の谷筋には須恵器窯が構築されており、そのうち松山窯は6世紀中頃のもので県下で最古に属する窯跡として有名です。また、この時代の集落遺跡も竜王山周辺から数多く発見されています。
このようなことから、須恵半島の南部地域は、小野田市でも早くから開けた地域であり、地理的位置からみても、古代から一つの独立した地域であったと思われ、塚の川古墳は、この独立した地域の中でも大きな力を持った首長の墓だったと考えられます。

塚の川古墳の価値
古墳時代後期に数多く造られた古墳群も、近年の開発により、ほとんどが消滅してしまった中で、塚の川古墳は数少ない現存する古墳です。その中でも最も原形をよく残している古墳で、墳丘や石室の規模に関しては、市内で最大のものです。この塚の川古墳は、小野田市の歴史を考えるうえで重要な文化財であり、昭和58年3月に市の指定を受け、昭和59年に石室の一部復元が行われ、平成2年度に公園整備が行われました。

 

現在地から南西側、竜王山の向こう側の海沿いに多くの古墳があることをここで知った。●が古墳、◆が古窯跡、▲が集落跡。

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古墳公園整備
この公園は、わたしたちの祖先の墓である「塚の川古墳」を核とした施設です。わたしたち祖先の貴重な文化遺産の保存と、郷土の歴史を学習し、安らぎ、憩う場となることを目的に整備しました。
遺跡整備にあたっては、古墳時代の埋葬の様子がよくわかるように、古墳の主体部や墳丘を整備して、副葬品(須恵器レプリカ)を置き、あわせて大判山古墳(遺跡分布地図参照)から出土した主体部の箱式石棺(実物)を復元しました。
この塚の川古墳公園を拠点に、祖先が長い年月をかけて培い育んできた歴史を正しく理解し、謙虚に学び、みんあで豊かな未来を創造していきましょう。

文化財の保存と活用
文化財は郷土の歴史や文化、自然や風土と人とのかかわりによる知恵と営みの結晶です。
文化財の保存は、郷土の自然を守り、良い生活環境を築き、郷土特有の文化と個性的な景観をつくります。
文化財は郷土の歴史的記念碑で、正しく理解し、認識され保存されなければなりません。
文化財は、郷土の歴史の経験の場であり、郷土の地域的連帯の源泉となります。
野田市教育委員会

 

公園の展示物として、もうひとつ、石棺が。

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石棺があった大判山古墳は上記の地図にも記載があった。

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大判山古墳石棺
この石棺は、塚の川古墳から南に約1.5㎞の小野田市小野田字東高尾(西部石油㈱敷地内)の丘陵上にあった市内最古(5世紀)の大判山古墳の主体部から出土した箱式石棺です。
棺財は、砂岩から造られており、石棺の内側の長さ151.5㎝、幅約57㎝で、厚さ約15㎝程度の大小4枚の板石を組み合わせたものです。
発見は明治20年頃で、石棺からは、朱がついた人骨・銅鏡・剣が出土したと伝えられています。
その後、石棺材は、小野田市歴史民俗資料館で保存されていましたが、この塚の川古墳公園の整備に伴い、復元したものです。

 

説明文では石棺自体は実物のようでもあり、復元のようでもあった。

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塚の川古墳は山陽小野田市のサイトにも解説があった。

古墳時代の後期、6世紀末に築かれた古墳で、この地方を掌握した豪族とその家族の墓とも考えられている。また、この当時、竜王山南麓一帯で須恵器の生産が活発に展開されていた頃で、単独墳として、この地域に卓越していた墳丘・石室規模を持つことから、その被葬者は、須恵器の生産集団の統率者であったと推定される。
墳丘は直径約15m、墳丘周囲の空堀を含めると古墳全体の直径は約27mになり、県内でも大型の円墳の1つといえる。
内部に設けられている石室は、全長8.1mの横穴式石室と呼ばれるもので、とりわけ玄室・前室・羨道からなる複室構造となっている。1人のためにつくった古い古墳とは違い、一族の追葬が可能な構造となっているところに、この古墳の特徴がある。
遺骸を安置した玄室は、奥行き3.2m、幅2.5m、高さ2.4mあり、玄室と前室の床面には板石や円礫が敷かれており、玄室中央から羨道までの床面下には排水用の溝が設けられている。
出土遺物は須恵器の杯身(つきみ)、平瓶(へいへい)など供物を盛った器のほか、身を装った耳環、武器であった鉄鏃(てつぞく)などがある。
山陽小野田市指定文化財 昭和59年3月1日指定

塚の川古墳 - 山口県山陽小野田市公式ホームページ 

 

月崎岬古墳・月崎遺跡 山口県宇部市大字東岐波

雄島古墳見学後は、周防大橋を渡って椹野川(ふしのがわ)河口部の右岸へ。

残り時間が少なくなってきたので、大浦古墳群や丸塚古墳群は次の機会として、岬の先端にある古墳を行き先に選んだ。 

 

グーグルマップの誘導で狭い路地に入り込んでしまい、撤退しようと思った矢先に縄文遺跡の広場に出た。

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海の手前のちょっとした広場。

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説明板もある。

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月崎遺跡
宇部市大字東岐沙字月崎
月崎遺跡は縄文時代前期から晩期(今から約9千年から2千3百年前)にかけての長期間にわたり、湾岸砂丘上に営まれた集落跡です。
昭和31年に偶然発見され、昭和36・37年に発掘調査が行われました。
調査では縄文土器・焼石。木炭が集中した炉跡のようなものや竪穴式住居の柱穴が出土し、住居や生活場所の存在が確認されました。
土器については、熊本県貝塚・曽畑貝塚出土土器の形式をもつ前期の土器、岡山県船元貝塚の形式をもつ中期の土器、また岡山県中津貝塚・福田貝塚、福岡県鐘ヶ崎貝塚熊本県西平貝塚の形式をもつ後期の土器などが出土しました。
また石器類として石錘・土錘(漁網用のおもり)が多数出土しました。海岸沿いであることから漁労中心の生活を送っていたものと思われます。ほかには石鏃、石錐、石匙(ナイフ)、石斧、すり石などがあり、日の山で木の実や小動物類を採取。捕獲していたのでしょう。
なお、石鏃などの石材には周防灘に浮かぶ大分県姫島産の黒曜石が多く用いられていました。姫島までは約40㎞と近く、海を渡って直接原石を手にしていたものと考えられます。
このように、月崎遺跡は九州と瀬戸内両地域の土器文化の接点ともいえる場所であり、月崎遺跡を含む周防灘沿岸の遺跡は姫島産黒曜石の供給を通して九州と瀬戸内の文化交流を促す役割を果たしていたことが考えられます。
周辺の縄文時代の遺跡には、月崎岬遺跡・花園遺跡(東岐波)、長桝遺跡(西岐波)、常盤池遺跡、山口市美濃ヶ浜遺跡、秋穂町赤崎遺跡などがあります。
郷土の歴史を知る上でも、また楽術的にも貴重な遺跡ですので保存にあたってのご協力をお願いします。
平成12年3月 宇部市教育委員会 

 

古墳へのアプローチは分からずに再び諦めかけていたが、あらためて落ち着いてグーグルマップの「月崎岬古墳」のクチコミ欄をみると、「ここまで直接行ける道はなくキワ・ラ・ビーチの駐車場に車を止め砂浜を400mくらい歩く必要があり」「砂浜を山の方を見ながら歩いていると案内板が見えるのでそこからさらに20mくらい歩くとたどり着きます」との情報があることに気がついた。

 

さっそくビーチへ。

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ビーチ右側。この先がキワ・ラ・ビーチ。そこには若宮古墳群もある。

ちなみに宇部空港から車で15分ほど。

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左側。この先に月崎岬古墳が。

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左側に注意しながら歩いていくと、ありました!

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史跡・月崎岬古墳入口の標柱。(コメントを書かれた田代健人さんに感謝)

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少し上ると複数の埋葬施設と説明板のある、明るい広場に出た。

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詳しい説明板。盛土が流出した横穴式石室が3基とのこと。

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月崎岬古墳群 月崎岬遺跡
宇部市大字東岐波字月崎
日の山東山麓から突き出た月崎岬には二種類の遺跡があります。岬の先端に近いこの丘陵上には三基の横穴式石室墳がありますが、これらはすでに封土(盛土)が流出し、石室が露出した状態になっています。この説明板に近い2号墳は奥壁と両側壁、天井石の一部が残るのみですが、最近の発掘調査により、石室の周辺から多数の土器を検出しました。ほとんどが須恵器片で坏(身・蓋)・高坏・短頸壺・はそう・甕のほかに、土師器の坏・壺や滑石製紡錘車などが出土しました。石室は南東に開口し、遺体を安置した玄室に当たる部分は長さ約1.5m、幅約1mでその床面には多数の小円礫が5㎝の厚さで敷き詰められていました。その横の3号墳は未調査ですが、石室には石材も比較的良く残っており、大きさは長さ約4.5m、幅約1.7mで西南に開口しています。
これらの古墳の時期は出土した遺物から古墳時代後期(6世紀末~7世紀初め)頃と考えられます。この西側にある若宮古墳群とほぼ同時期です。
また、ここから岬の東側を海沿いに約百m進むと、崖の上に一基の箱式石棺があります。これもすでに封土はなく石室が露出しています。この古墳の時期は横穴式石室古墳群よりややさかのぼるものと考えられます。これらを含めて月崎岬古墳群と呼んでいます。
一方、岬の先端部西側の海岸線付近には縄文時代後期の遺物を含んだ砂まじりの土層が厚さ30~50㎝長さ約20mにわたってあります。ここが月崎岬遺跡で、出土遺物は縄文式土器片と海浜からは石錘(漁業用のおもり)が12個採取されました。
郷土の歴史を知るうえで大切な遺跡ですので保存にあたっては皆さん方のご協力をお願いします。
平成21年1月 宇部市教育委員会

 

こちらが奥壁、側壁が残る2号墳か。

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これが、西南に開口する3号墳か。

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またもや説明板をよく読まずに引き返したしまったが、広場の先に続いていたこの道を100mほど進むと、崖上の箱式石棺があるのでしょう。

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帰りの飛行機の前に、まだ見たい古墳があったので気がせいていました。いつか再訪したいと思います。 

 

帰路、海岸への出口。

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そこを左に折れた岬先端側に気になる岩があった。

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まるで石室石材のような。

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反対に回ると、加工の跡も。 

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さらに先端側には岩のテラス。垂直面は切り出した跡か。

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船に積んで遠くへも運んだのでしょう。 

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半円形の美しい湾でした。縄文期から人を惹きつけてきた土地の魅力がわかるような気がしました。

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