マルコ山古墳を見た後は、南西に700mほどの束明神古墳へ。
佐田の春日神社の東裾にある、「ふるさと会館」の駐車場を利用。
表示板に従って坂道を上がります。
行き止まりに見えますが、奥の階段の右に参道が続いています。
その先の石段。
振り返っての甍の波。中央の小山が気になりますが、古墳のピンは立っておらず。
石段ストレート。
上がった先の鳥居。
その右側に墳丘がありました。
石槨の規模や周囲の造成が大規模であることなどから、草壁皇子の墓である可能性が高いとのこと。
束明神古墳
この古墳は明治26年の野淵竜潜による「大和国古墳墓取調書」に初めて記され、その後「大和国高市郡古墳誌」等にも報告されているが、それほど目立った存在として取り扱われていなかった。橿原考古学研究所では高松塚古墳の調査後、終末期古墳の研究を進め、束明神古墳が後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳として注目してきた。こうした認識にたち、昭和53年に外形の実測調査を実施し、これをもとに各方面からの検討を加え、昭和59年4月16日から発掘調査を行った。調査は、由良大和古代文化研究協会の助成を受けて奈良県立橿原考古学研究所が高取町教育委員会と協働で実施した。
古墳は尾根の南側を直径約60mの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっている。石槨の規模等についてもこれまで調査された終末期古墳にみられなかった大規模なものである。石槨の変遷・棺の構造・須恵器等から総合的に判断して、7世紀後半から末頃と考えられ、また歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される。
草壁皇子(天武天皇と持統天皇とのあいだに生まれた皇子)の墓である可能性が大きいといわれている。
高取町教育委員会
高取町のサイトによれば、対角線の長さ30mの「八角形墳」とのこと。
下記のサイトには発掘調査時の石槨の写真が載っています。
こちら(南側)に開口部があるのでしょう。
昨年、橿原考古学研究所附属博物館の前庭に展示されている石槨のレプリカを見ました。
橿原考古学研究所附属博物館 奈良県橿原市畝傍町 - 墳丘からの眺め
50㎝×50㎝×30㎝に加工した凝灰岩を約500個も組み上げており、今見ると素っ気ないコンクリブロックのようにも感じられますが、当時の最高の技術でしょう。
そんな大きなものが中に埋まっているとは思えない、可愛らしい墳丘でした。
山側に「遥拝所」の石碑がありました。
山側の神社社殿に参拝。
2024年4月上旬訪問