山の根古墳を訪ねた後は、600m南にある三ノ耕地遺跡へ。
その間には刈り取った後の田んぼが広がっていた。
鉄塔の向こうは久米田神社。
山の上古墳のある丘を振り返る。
その先の道路沿いに説明板があった。
三ノ耕地遺跡
三ノ耕地遺跡は吉見丘陵の眼下に広がる沖積地内の自然堤防上に立地しています。発掘調査は土地改良事業に伴い平成8~9年度の2カ年にわたり実施されました。
ここで発見された水場遺構は、縄文時代晩期(約2500年前)のもので、全国的にも発見例の少ない貴重な遺構です。その規模は南北13.5m、東西7.3m、袱紗1.8mの細長い楕円形を呈しています。主に木の実(トチノミ・クルミ・クリ)など堅果類の虫殺し・アク抜きのための「水さらし」を行った場所です。多量の木の実と一緒に食物先史で作られたザル状の編み物も大小6点出土しており、これらは水さらしを行うための道具として使用されていたと考えられています。
また、水場遺構の底面には湧水点(直径約40㎝、深さ約30㎝の穴)があり、内部には土器・石器などの他に石剣・手燭形土器・獣骨(イノシシ・シカ)などが廃棄されており、周辺から見つかっている土偶・耳飾り・イノシシ形土製品と一緒に「シカやイノシシなどの狩猟に関わる祭祀」に伴って使用されていたと考えられます。古墳時代前期(4世紀初頭頃)の特異な墳形をもつ前方後方形墳墓3基が方形周溝墓と並んで見つかりました。北側から順に1~3号墳で全長は1号墳:69m、2号墳:約40m、3号墳:約27mです。このことは、既にこの地域に大規模な墳墓を築造する有力者が存在していたことを示しています。、また、1号墳の東側んで確認された旧河川跡からは、同じ頃に使用されていたと思われる鋤・鍬・竪杵などの木製品が多量に出土しています。
平成13年3月 吉見町教育委員会
説明板の背後(北)の田んぼの場所で、前方後方形墳墓が発掘された。(古墳時代に入っているが弥生時代からの系譜にあるので前方後方墳と呼んでいない?)
1年前に朝霞市博物館で見た企画展にも発掘時の写真パネルがあった。
https://massneko.hatenablog.com/entry/2020/01/15/000000
現地説明板は右の写真の上端中央あたりに立つ。
その企画展での解説と実測図。
三ノ耕地遺跡は吉見丘陵眼下に広がる低地の自然堤防上に位置しています。時代の移行期から古墳時代前期にかけての前方後方形墳墓3基、方形周溝墓28基がみつかっています。
方形周溝墓群とともに墓域を成す3基の前方後方形周溝墓は、南から3号墳(推定全長25m)、2号墳(墳長30m)、1号墳(墳頂48.8m)と規模を大きくするとともに前方部も長大化しています。さらに北側、低地を一望する丘陵南端部尾根上には山の根古墳(墳長54.8m)があり、自然堤防上の方形周溝墓群から丘陵縁辺部に上がった前方後方墳までが一連の関係性をもっていると考えられます。
出土したパレススタイル壺や高坏などからは東海西部地域との関わりが、また、二重口縁壺や丸底坩からは近畿地方との関わりが見て取れ、3基の墳墓は3世紀代から4世紀後半頃にかけて変遷したものと考えられます。
嵐山町のサイトにも発掘時の写真が。
説明板に記されている、水さらし場の写真も。
説明板の前から北方向、山の根古墳のある丘を再度。
西方向。先には秩父の山々。
南西方向。この先2㎞ほど、市野川の対岸に柏崎・古凍古墳群がある。
グーグルマップで見ると、三ノ耕地遺跡は大きなS字型の微高地(自然堤防)の西端に位置していることがわかる。