前回のつづき。
多摩川台古墳群のある多摩川台公園の北西端の道を隔てた先、最も標高が高いところが宝萊山古墳の前方部。
柵で仕切られた宝萊山古墳の史跡地に入る。ちょっとした広場のとなりが宝萊山古墳のくびれ部あたり。
パノラマで。左が(削られた)後円部、右が前方部。
墳丘の東側にある平成10年の説明板。
東京都指定史跡 宝萊山古墳
所在地:大田区田園調布4-4
指定:大正15年4月(平成8年3月18日種別変更)
宝萊山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、標高37.5m付近に築造された全長約97mの前方後円墳で、4世紀に築かれたこの地域最古のものである。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107mの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。
昭和9年に後円部が土取り工事で削平された際に、粘土槨の埋葬施設が発見され、四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣などの武器類が出土している。
平成7年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設があることが推定され、前方部の先端が「撥(ばち)状」に広がる形をとることが明らかにされた。墳丘は、前方部2段、後円部3段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる1段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要である。平成10年3月建設 東京都教育委員会
英語版も一応。前方後円墳は「keyhole-shaped tomb mound」と訳されている。
墳丘西側、広場の側には少し古そうな説明板。内容は東側のものとほぼ同じだった。
全長97m以外のサイズも記されていた。
後円部径52m、前方部幅38m、後円部高11m、前方部高8m
平面図の拡大。左の後円部は削られて宅地になっている。
墳丘に上がれるようになっている。
墳頂の通路部分から後円部方向。柵の先に直径52mの後円部がかつて存在した。
上記の背面、前方部方向。
墳丘から東側に下りる道。
降りた先に平成10年建設の説明板がある。
東側からくびれ部~前方部。
東側いも出入口があった。
開門時間が決まっているので要事前チェック。
さらに東側に向かって谷地形になっていた。降りた場所に区立の宝来公園がある。
かつては住宅の前まで後円部があったと思われる。
かつての後円部先端と思われる場所から多摩川方向。古墳は遠くからでも認識できるランドマークであったであろう。
つづく。