2022年5月21日は古市古墳群を巡りましたが、なんばに泊まった翌日の午前中に百舌鳥古墳群の一部も回りました。
2015年の夏に、大仙古墳(仁徳天皇陵)やニサンザイ古墳(履中天皇陵)を訪ねたのですが、そこだけになっていたので訪ねる機会をうかがっていました(7年後ですが…)
堺市役所展望ロビーから望む仁徳天皇陵(大仙古墳) 大阪府堺市堺区南瓦町 - 墳丘からの眺め
仁徳天皇陵(大仙古墳・大仙陵古墳) 大阪府堺市堺区大仙町 - 墳丘からの眺め
堺市博物館 大仙公園 大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町 - 墳丘からの眺め
履中天皇陵(ミサンザイ古墳・石津ヶ丘古墳・百舌鳥陵山古墳) 大阪府堺市西区石津ヶ丘 - 墳丘からの眺め
まずは群中北端にある田出井山古墳(反正天皇陵)を目指し、最寄りの南海電鉄・堺東駅で下車。東口を出たときは5時半過ぎ。
住宅街の道を東に緩く上っていきます。
街角の案内表示が頼もしく。
すぐに前方部左裾側に出ました。前方部中央の拝所へ向かいます。
鳥の声が静けさを際立たせます。
掃き清められた玉砂利を前にすると心が洗われます。
来た道を振り返って。「熊野街道」です。
これから進む方向を。左の木立は堤上に茂っています。
すぐ先に説明板がありました。
反正天皇陵古墳
時代:5世紀中頃
古墳の規模:墳丘長148m、後円部径76m・高さ13m、前方部幅110m・高さ14.8m
反正天皇陵古墳は田出井山古墳ともよばれ、百舌鳥古墳群の北端に築かれた前方後円墳です。造られた場所は大阪湾を望む台地の端にあたり、古墳の向きが海岸線に沿っていることから、古墳が海からよく見えるように築かれたと考えられています。
墳丘は3段に築かれており、西側のみに造り出しがあります。かつては現在の濠の周囲に外濠が巡っていましたが、遅くとも14世紀には埋まったようです。外濠からは埴輪や須恵器、勾玉が見つかっています。東側には天王古墳と鈴山古墳があります。
堺市 2018年3月
台地の端に、海岸線に沿って築かれていたのですね。
柵の向こうの茂みの間から、東側の濠が見えました。
そこから墳丘東側の住宅街に残る、2基の陪塚を回りました。
はじめに鈴山古墳。
陽が射しはじめた墳丘。
鈴山古墳は一辺22mの方墳。
鈴山古墳
時代:5世紀中頃
古墳の規模:一辺22m、高さ3m
古墳の形:方墳
鈴山古墳は反正天皇陵古墳の東側にあり、近くにある天王古墳とともに反正天王陵古墳と関わりのある古墳(陪塚)と考えられています。鈴山古墳の西側で行われた発掘調査では、反正天皇陵古墳の外濠や円筒埴輪が見つかりましたが、鈴山古墳の濠は見つかっていません。
鈴山古墳の周辺には北三国ヶ丘遺跡が広がっており、発掘調査では中世の溝や墓が見つかっています。これらの遺構はかつてこのあたりにあり、後に反正天皇陵古墳の北側に接する方違神社へ合祀移転された向井神社に関連する遺構と考えられます。
陪塚:大型古墳の周囲に築かれた中小の古墳
堺市 2019年3月
そこから70mほど北に、天王古墳。
ここも一辺が道路に沿っていて見学しやすい墳丘です。
天王古墳も方墳で、一辺は11m。百舌鳥古墳群では方墳は少なかったのですね。
立派な名前は牛頭天王社から。
天王古墳
時代:5世紀
古墳の規模:一辺11m、高さ(現存)2m
古墳の形:方墳
天王古墳は反正天皇陵古墳の東側にあり、鈴山古墳とともに反正天皇陵古墳と関わりのある古墳(陪塚)と考えられています。墳丘の周りに濠が巡っていたかどうかはわかりませんが、百舌鳥古墳群では数少ない方墳の一つです。
天王という名称は、このあたりにあった向井神社の別称「牛頭天王社」に由来するものと考えられています。
陪塚:大型古墳の周囲に築かれた中小の古墳
堺市 2019年3月
朝の散歩の方もちらほら。
天王古墳の前の道をそのまま北西に進むと、方違神社に。
清々しい境内。
熱心に参拝されている方がおられました。
方違神社の境内は、田出井山古墳のビュースポットでもありました。
後円部先端側。
東側の濠、奥が前方部。墳丘の大きさを実感します。
境内の一画には見事なバラ園がありました。
神社を出て、田出井山古墳の西側の閑静な住宅街(邸宅街?)を通って堺東駅に戻りました。