墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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泰山荘(高風居ほか)特別公開@国際基督教大学、幕末の北方探検家・松浦武四郎展@静嘉堂文庫

前回のつづき。東京文化財ウィーク2018の一環で、泰山荘・高風居(こうふうきょ)他の一般公開に当選した。 少し道に迷ったが集合時間前に到着。

美しい茅葺き屋根の「表門」をくぐる。

 

門の横に、昭和11年に紀州家高木文誌が記した解説板があるが、旧字体であることと一部が錆びていることにより書き起こしは省略します。

 

以下はいただいた絵葉書にあった解説。

泰山荘は、実業家山田敬亮(けいすけ:1881~1944)が茶室付別荘として建設し、昭和14年(1939)に竣工しました。焼失した母屋を除いて、武蔵野の雑木林の中に6つの建造物が現在も残っています。
「高風居」は入母屋造、茅葺、平屋建の建物で、「一畳敷」と呼ばれる畳一枚の小さな書斎と六畳の茶室、三畳の水屋から成ります。「一畳敷」は、幕末に北海道を探検した松浦武四郎(1818~1888)により、各地の古材を集めて、明治19年(1886)に建てられました。この「一畳敷」のために徳川頼倫(よりみち:1872~1925)が、やはり歴史的建造物の古材を集めて建てたのが高風居です。この建物は泰山荘建設の際、昭和11年(1936)に代々木上原から三鷹に移築されました。
待合は備前池田家下屋敷と伝えられる、茅葺平屋建の寄棟造で、内部に茶室・次の間・水屋・取次・土間・玄関を備えています。
書院、蔵、車庫は昭和11年(1936)頃の築造で、このうち書院は入母屋造、瓦葺、平屋建で、6畳と8畳の和室の南西側2辺に広い座敷縁と濡れ縁を設けています。
泰山荘の入口には、江戸橋幸橋御門の古材を転用したと伝えられる切妻造、茅葺、高さ5m、幅7.1mの表門が建っています。

 

内側からの表門。高さ5mある薬医門で、解説板には「泰山荘の建設を指揮した茶匠亀山宗月の好みが表れた雅趣ある門で、江戸城幸橋御門の枡形土壇から発掘された古材を用いている」とある。

この門と高風居、書院、待合、蔵、車庫の計6つの建物が国登録有形文化財。

 

受付で登録を済ませ、10名ほどのグループで学生さんの解説によるツアーに参加した。ツアー中は撮影禁止なので、下記の写真はツアーの前後で撮ったもの。

 

茶席の準備をする紅白テントが芝生広場にあり、そこに面して木造平屋建ての「書院」があった。

 

かつては手前側に大きな母屋と台所棟(日野の農家を移築)があって廊下でつながっていたが、昭和41年(1966)に焼失している。

 

6畳・8畳の二間に濡れ縁付きの畳縁を回し、東側に板敷縁をつける。

 

書院の隣から見た芝生広場。

 

こちらの「待合」は、江戸大崎にあった備前岡山藩池田家下屋敷の茶室・池亭の移築と伝わるそう。茅葺平屋建の寄棟造で茶室・次の間・水屋・取次・土間・玄関を備えるが、泰山荘での茶会では本席が高風居、こちらが待合となっていたとのこと。

 

 大崎の池田家下屋敷ということは、現在の池田山公園にあったのだろうか。

 

「蔵」は昭和11年頃の築、鉄筋コンクリート造平屋建の書庫。
手前の蔵前部以外は庫室全体が高床式となっている。

 

座っている方の前の道が「高風居(こうふうきょ)」へと向かう小道。残念ながらここから先は撮影禁止。 

高風居は泰山荘の中心的建築物で、あの北海道の名付け親・松浦武四郎が建てた「一畳敷」が元になっている。

武四郎が亡くなると神田五軒町の松浦邸から、麻布、代々木上原、そして三鷹へと所有者が変わり移築を重ねた。

現在の高風居は、紀州徳川家・徳川頼倫によって代々木上原にて茶室と水屋が付け加えられ、入母屋茅葺き屋根が全体にかぶさった平屋建てなっている。

立地は、広大な大学敷地の南西端、野川に向かって下る斜面。現在は木々に囲まれた森の中だが、かつては富士山まで見渡せる眺望があったのではと想像できた。

 

この「一畳敷」はレプリカが作られていて、ICU構内にある「湯浅八郎記念館」で見る(入る)ことができる。特別展で2018年11月9日まで。

http://subsites.icu.ac.jp/yuasa_museum/special_exhibitions.html#autumn

 

「一畳敷」は、松浦武四郎(1818~1888)が自らの古希を記念して、全国各地の霊社名刹の建造物に由来する古材・90の木片を用いて作った一畳の書斎。

 

湯浅八郎記念館にあった泰山荘の配置模型。左が表門で手前が待合、奥が書院と蔵。右に降りていったところに高風居がある。焼失した母屋の跡も示されていた。

 

高風居を正面側から。中央の妻側で手前に出ている部分が「一畳敷」

 

湯浅八郎記念館の特別展に出ていた原寸模型。

 

(株)佐藤秀によって今年作られている。英語ではOne-Mat Room。

 

靴を脱いで中へ。一枚の畳に板縁を廻らせている。こちらは床の間側。

泰山荘見学時にいただいた資料「泰山荘必携」によれば、オリジナル建物における畳の周りの額縁板は、奈良県吉水神社(吉水院)にて、天皇も住んでいた部屋の台座の前に使われた地板であるそう。

 

見上げると神棚。釣床になっている床柱は逆さになった欄干。こちらも前記資料によれば、静岡県鉄舟寺(久能寺)の観音堂の欄干に由来するそうだ。神棚の台座には出雲大社の古材が使われているらしい。さらに床板には京都の聚楽第の古材が。

 

反対側には文机。

 

その左側の壁には書棚がしつらえられていた。

 

高さもあまりないが、低い欄間には見事な透かし彫り。この木材は奈良県の吉野山水分神社の欄干に由来するそうだ。ちなみに武四郎の身長は142cmだったそうなので窮屈なものではなかっただろうとのこと。

 

天井には龍が描かれている。この板は和歌山の熊野本宮神社の扉に由来するそうだ。

 

記念写真コーナーもあった。

 

高風居の現在の外観は文化遺産オンラインでも見ることができる。

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137138/1

 

もちろんICUのサイトでも。

http://subsites.icu.ac.jp/yuasa_museum/taizanso_web/index.html

 

 

別の日に、静嘉堂文庫で開催されている「幕末の北方探検家 松浦武四郎展」を見に行った(2018年12月9日まで)

ここにも「一畳敷」関連の展示があったが、それより「古物の大コレクター」としての一面を知って大変驚いた。勾玉や鈴鏡、須恵器など、古墳の副葬品もぞろぞろ。探検家、官職を退いた後は古物収集に情熱をかけ、それが一畳敷にもつながっていたことがよくわかった。

http://www.seikado.or.jp/exhibition/index.html