墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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中野区立歴史民俗資料館 旧名主家(山﨑家)庭園・茶室公開 東京都中野区江古田

GW期間中(4/25~5/7)で中野区江古田にある区立歴史民俗資料館で、江戸期の旧名主家の特別公開があったので行ってみた。

 

西武新宿線の沼袋駅から北へ徒歩8分、新青梅街道沿いにあった。

歴史民俗資料館利用案内 | 中野区公式ホームページ

 

資料館には「山﨑記念」が冠されている。江戸期から続く地元旧家の第八代当主であった山﨑夫妻が中野区に土地を寄贈した。敷地内にかつての庭園と離れの建物が残されている。

 

普段は閉じられている庭園入口。毎年春と秋の一時期に公開される。

 

庭園には樹齢500年といわれる椎の木がある。

 

扉が開け放たれた「離れ」 右に書院、左に茶室。外からの見学のみ。

 

苔と石が美しい通路があった。

 

離れは謎の洋館と接続していた。

 

 書院の間を庭から。

 

こちらはその左隣の茶室。

 

こちらが平面図。

 

 書院・茶室についての解説。

書院・茶室について
この書院・茶室は天保12年(1841)に山崎家の離れとして建てられたもので、西側に6畳の茶室、東側に6畳と8条の座敷を持つ書院の2つの部分で一棟を後世している。
茶室部分には炉はなく、いわゆる茶道でいう本格的な茶室の役割というより、この地に訪れた、幕府役人などの迎賓・宿泊施設として、最上級の客間も兼ねていたものと思われる。
6畳と8畳の座敷の間は板襖で仕切られており、ここのいは彩色豊かな唐子の絵が描かれている。この絵は、弘化4年(1847)に江古田氷川神社の天井格子絵を描いた絵師雪洞がここを宿泊所としており、その時に描いたものといわれている。
また、この茶室には大田蜀山人など江戸の文人墨客の多くが宿泊したと伝えられ、この頃の江戸周辺農村の文化レベルの高さを示す遺構としても、きわめて貴重なものである。

 

座敷の間の板襖に唐子の絵があることは、あとで書き起こしているときに知った。このときに見えていたかどうかは今となってはわからず…

 

山崎家についての解説。

山崎家について
この地は、江戸時代江古田村丸山組名主であった山崎家の屋敷跡である。
山崎家は、代々喜兵衛を名乗っており、二代喜兵衛の頃、農業のかたわら醤油製造業をはじめた。文化・文政期(1804~29)には中野村や江戸千駄木に支店を出すまでに発展し、この頃のいくつかの紀行文にもその名を記されるほど知られるようになった。
山崎家が名主になったのは三代喜兵衛の時で、以降、代々名主を世襲した。
四代・五代喜兵衛の時、文化・文政・天保期(1804~47)に隆盛を誇り、この茶室・書院もこの頃に建てられたものである。
五代喜兵衛の天保4年(1833)には、徳川御三卿の一つ田安家侯を迎えるなど、上流階級との接触もああった。
六代喜兵衛の時、明治維新を迎え醤油製造業を廃業したが、戸長・東京府議会議員・野方村村長と、地域行政の責任者としての立場は変わらなかった。

 

茶室の前から書院方向。

 

 解説にあった雪洞による襖絵は中野区のサイトに画像がある。

【中野の歴史11-2】謎の絵師「雪洞」 | 中野の歴史 | まち歩き | 中野区都市観光サイト まるっと中野

 

先日、寛永寺を拝観した帰りに雪村展へ寄って、迫力の水墨の世界に浸ったが、最終”章”の「雪村を継ぐ者たち」での展示に、名前に雪のつく画家があったことを思い出した。

公式サイトを確認すると雪洞による「瀟湘八景図」が出ていたが、上記の区の解説にもあるように別の時代の同じ名の絵師のようだ。

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2016/sesson/sesson_list.pdf

 

ちなみに雪村(せっそん)展は上野の東京藝大美術館で5月21日まで。

つづく。