今年になって、谷中のヒマラヤ杉を初めて訪ねたが、近くにある細道を歩きそびれていた。
下記の本でそのルートを見て、ヒマラヤ杉を再訪した。
「おれの細道 江戸東京狭隘路地探索」 黒田 涼 著 - 墳丘からの眺め
再訪後に調べていたら、横チンさんのブログに詳しく記されていたことに、今更ながら気づいた。
横チンさんとかぶる写真が多くて恐縮ですが・・・
まずは夕陽を浴びるヒマラヤ杉。
木の下に立つと、風で葉がこすれる音がサワサワと聞こえた。
杉の西側、細道ルートとは反対側の突き当たりにある領玄寺。
門は閉まっていたが、満開の梅が見えた。
境内にあった「領玄寺貝塚」の説明板をズームで。
領玄寺貝塚
台東区谷中4-3 領玄寺境内他
貝塚とは、縄文時代の人々が食用とした貝の殻をはじめ、土器や石器を投棄した場所をいう。貝塚は、その地が当時海辺であった証拠である。
領玄寺から北隣の妙円寺にかけて、縄文時代中・後期)紀元前3000年~1000年ころ)の小規模な貝塚が点在し、
貝:ハマグリ・マガキ等、十二種類の貝
土器:勝坂式(中期前半)・加曾利E式(中期後半)・堀之内式(後期前半)等の土器
石器:打製石斧・石鏃・石錘等
などの遺物が発見されている。
領玄寺貝塚は上野台地の西端に立地し、北方には同時期の延命院貝塚が見られ、現在のJR線路に沿っては天王寺貝塚(谷中霊園内)や新坂貝塚(鶯谷駅南口付近)などの貝塚が分布する。かつて、上野台地は西側に旧石神井川(藍染川)の流れる谷があり、東には海岸線が広がっていて、漁撈生活を営む縄文時代人には住みやすい土地であった。
(現在は墓地になっています。見学希望の方は領玄寺にご連絡下さい)
平成7年3月 台東区教育委員会
ヒマラヤ杉に戻って南東への小路へ。
再建中(?)の祠の横を通って右折。
突き当たりにある長運寺。
門の前で左に向かう。
道は右へと続いていた。
こちらも、行き止まりのような雰囲気を出している。
壁と一体になった大木の先に階段がある。
細道と階段の組み合わせ。
階段の上で振り返って。
石段を降りると道の脇に現役の井戸(私有地)があった。
その先で左折。
小規模だがぴったり組まれた石積み。
塀の間の細道を下って振り返ったところ。
北側は玉林寺。
右手の通路から出て細道の起終点。
玉林寺の境内には千代の富士の銅像が立っていた。
山門前には東京都の天然記念物指定を受けたスダジイの説明板があった。
本堂裏側に立つ幹周り5.63mの巨樹で玉林寺創建(1591年)以前のものだそう。
裏手の墓地へ回ってみた。
石段脇には現役の井戸も。
墓地の一画に木立があったが、この木なのか・・・?
土盛りのほうが気になったが、東京都遺跡地図には何の印もなかった。
言問通りに面した山門。
山門と通りを隔てた側。
ゆるい傾斜は「善光寺坂」だった。
善光寺坂
台東区谷中1-5
谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂・あかぢ坂とがあり、あかぢ坂は明治以後の新設である。
善光寺坂は信濃坂ともいい、その名はこの坂上の北側にあった善光寺にちなむ。善光寺は、慶長6年(1601)信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は元禄16年(1703)の大火に類焼して、青山(現港区青山三町目)に移転し、善光寺門前町の名称のみが明治5年まで坂の南側にあった。
善光寺坂のことは、明和9年(1772)刊行の「再校江戸砂子」にも見え、「御府内備考」の文久9年(1826)の書上には、幅2間(約3.6m)、長さ16間(約29m)、高さ1丈5尺(約4.5m)ほどとある。
平成7年3月 台東区教育委員会
坂上側から。400mほど先、不忍通りとの交差点(根津一丁目)に地下鉄根津駅がある。
つづく。