前回のつづき。
谷中一丁目を再訪した折、道路脇の案内図に気になる表示があった。
中央やや下に「蒲生君平墓」
蒲生君平(1768〜1813)は、"前方後円"の名付け親。
蒲生君平 - Wikipediaにその生涯について記されているが非常に興味深い。
臨江寺へ行ってみると道に面した門の脇に「国史跡」の石柱や案内板もあった。
台東区による解説板。
蒲生君平墓(国史跡)
台東区谷中1-4-13 臨江寺
蒲生君平は、明和5年(1768)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。通称伊三郎、字を君臧または君平、修静または修静庵と号した。姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将蒲生氏郷の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の一人と称せられている。
幼児から学問に励み、長じて水戸藩士藤田幽谷を知り、節義と憂国の感化を受けた。寛政(1789~1800)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)「山陵志」を完成させた。これは、幕末の尊王論の先駆をなすものとして名高い。
後、江戸に出て著述に専念し、文化10年(1813)に没した。「蒲生君臧墓表」と題した墓石には四面にわたって藤田幽谷の撰文を刻む。昭和17年国史跡に指定された。
山門にある「勅旌忠節蒲生君平」の石柱は明治初年度政府が建立したものである。
平成10年3月 台東区教育委員会
「勅旌」の意味を検索したら、宇都宮にも「蒲生君平勅旌碑」が建てられていたことをこちらの方のサイトで知った。
臨江寺の勅旌碑。
お墓に参ろうかと山門へ。
本堂左に墓地が広がっていたが案内等はなく探せそうになかったので、本堂に一礼して帰途に。
境内の祠。一瞬、江戸期にタイムスリップしたような気分になった。
あとで調べると、蒲生君平墓(がもうくんぺいのはか)とは - コトバンクで墓地(墓石)は本堂左側の庫裡裏の傾斜部分にあるとのことだった。
こちらのサイトに写真があった。
臨江寺の北西辺は三浦坂になる。前回来た時は、坂下にある説明板に気づかなかったが、電柱の裏に隠れていた。
三浦坂の解説板。
かつて美作国真島郡勝山の藩主であった三浦志摩守の下屋敷があったことからその名がついている。marcoさんのブログ・谷根千あたりをうろつく 2 - garadanikkiに詳しい。
こちらは、三浦坂の北側に並行する「あかじ坂」(あかぢ坂)
現地に説明板は見つからなかったが、”坂学会”さんのサイトに詳細があった。
http://www.sakagakkai.org/profile/taito/akaji.html
日本橋で明石屋という乾物屋も営んでいた明治の財閥・渡辺治右衛門(通称・明石屋治右衛門)の邸宅が石垣の上一帯にあり、通称が略されて明治(あかじ)坂と呼ばれたという説と、別の興味深い一説が紹介されている。
坂の途中にある石段。
石段を登ると対岸には今も大きなお屋敷があった。
坂の途中の石垣。
坂下から。
こちらは三浦坂を下った先の町並み。
つづく。