墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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児玉坂 薬王寺坂 浄栄寺 瑞光寺脇の細道 東京都新宿区市谷仲之町・薬王寺町・原町

今回は新宿区河田町の旧フジテレビ跡の北東側、牛込柳町駅の南側の界隈。

 

こちらは市谷仲之町交差点へ降りるバス通り。突き当たりの「ザ・センター東京」は2007年竣工、地上38階、426戸が入居するマンション。

 

上記の位置から左への枝道に「児玉坂通り」という標柱があった。

日露戦争で活躍した明治時代の陸軍大将、児玉源太郎の邸宅がこの付近にあった。

 

少し入ると、解体を待つアパート群。

 

都心の一等地にあった官舎(かと思います)は築年数を重ねた昨今一斉に壊されて、土地が売られて次々と高級マンションに建て変わっているように感じられる。

 

上記の現場で東に折れて道なりに進むと外苑東通り。通りに出る直前に児玉坂通りのもうひとつの標柱があった。

 

そこから振り返った児玉坂。

 

外苑東通りを北に進むと、ぎゅるっとに西に上る道があった。 

 

上って右手にあった長昌寺。

 

その先左に浄栄寺。

 

山門前にあった解説板。 

新宿区指定有形文化財 建造物
浄栄寺(じょうえいじ)の山門「甘露門」
所在地:新宿区市谷薬王寺町27番地
指定年月日:平成24年5月2日
浄土真宗浄栄寺の山門で、安永7年(1778)の年号をもつ扁額や建築装飾の様式等から、江戸時代後期の建築と推定される。形式は薬医門で、切妻造・桟瓦葺である。柱や梁の材が太く、屋根は大振りで重厚な門構えをみせる。
浄栄寺は、江戸時代後期の文人・大田南畝と縁が深く、南畝はこの寺を「甘露門」と称し度々会合を催していた。この山門に掲げられた扁額にも「甘露門」と記されている。
かつてこの界隈は、袋寺町と呼ばれる寺町であったが、この山門は当時の面影を伝える数少ない建築であり、また、区内でも希少な江戸時代の建造物として重要である。
平成24年6月 新宿区教育委員会

 

境内側から見た甘露門。立派な屋根瓦。

 

本堂にお参り。

 

奥に墓地があった。

 

それほど広くない境内だが堂々とした鐘楼もある。

 

説明板によれば元禄時代に鋳造されたものだった。寺宝には尺八もある。

新宿区登録有形文化財 工芸品
浄栄寺の梵鐘
所在地:新宿区市谷薬王寺町27番地
登録年月日:平成18年3月7日
浄栄寺第三世覚円の発願により、元禄9年(1696)に鋳造された銅造の梵鐘。総高134.5cmで、江戸鋳物師西嶋伊賀守藤原兼長の作である。
江戸鋳物師の製造技術が頂点に達した時期の作品で、江戸鋳物師の作風・鋳造技術を知ることができる。また、銘文から当寺の寺歴や梵鐘鋳造の歴史を知ることができ、史料的価値も高い。
太平洋戦争中の供出により区内の江戸時代の梵鐘は残存数が少なく貴重である。
平成18年10月 新宿区教育委員会

 

大晦日に参拝すれば音が聴けるか。

 

山門の斜向かいに薬王寺坂通りの標柱があった。町名・坂名になっている薬王寺は明治維新時に廃寺となっている。

薬王寺坂通り
江戸時代、現在の外苑東通り沿いに薬王寺という寺院があった。

 

 標柱の後ろにいい雰囲気の坂があったが、薬王寺坂は外苑東通りからこちらへ上って来た道のほう。

 

薬王寺坂通りをそのまま西に進むと左に蓮秀寺。

 

通り沿いには石垣がある。

 

道はその先で行き止まりになった。かつては石段で先に通じ立ていたか。

 

引き返す途中、北へ伸びる枝道へ行ってみた。

 

途中で振り返って。

 

さらに椿の繁る枝道を入って来て・・・

 

さきほどの階段の下に戻ってみた。

 

少し北へ進んで階段を振り返ったところ。

 

道の先にはまた階段。

 

階段は個人のお宅に続いていた。

 

その先で右折すると柳稲荷大明神。

 

 

その先に春節ムードの路地があった。

 

路上の井戸も。

 

枝道の風景。

 

少し戻って車の入れない道へ。 

 

瑞光寺参道と示された階段を上がった。

 

狛犬のいる門をくぐる。

 

くぐって振り返ったところ。

 

境内と墓地の間の細道を進む。

 

曲った先にも続く細道。

 

ポールの背が高い。

 

さらに続く細道。

 

ゴールが見えてきた。

グーグルマップに道が白く示されていて他に通る人もあったが、先がどうなっているのかと思わせる力を持つ(?)魅力的な細道だった。

 

細道を抜けて振り返ったところ。

 

そこは、都営大江戸線牛込柳町駅の西口から30mの近さだった。