墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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日吉矢上古墳(跡付近) 「日吉台付近に前方後円墳を探る」港北ボランティアガイド・歴史ツアー

5月28日の土曜日、表題のツアーに参加しました。

今月はじめに訪ねた加瀬台古墳群を調べていた時にツアーの情報に行き当たり、応募したら枠に入れました。

歴史ツアー「日吉台付近に前方後円墳を探る」(5月27日) | ニュース | 港北ボランティアガイド

複数のスタッフの方々の案内と古墳に詳しい地元の研究者の方の解説とで、とても充実したツアーを楽しめました。

 

当初は27日の予定が悪天候により28日に。

集合は日吉駅。「銀の玉」が目印と言われましたが、確かにありました。

東側の奥は慶應大学日吉キャンパス。

 

”華の慶早戦”の案内が出ていました。

 

西側は放射状に道路が広がっていてそれぞれに名前がついていましたが、学内のような名前の通りもありました。

 

午前9:30に出発。6.5kmの行程を歩きます。30人程が2班に分かれてスタート。

西口を出て北に向かって線路沿いに進み、途中で左、右へと折れて谷へ下ります。

 

下りきったところにあった道路。趣のあるカーブを描いていると思ったら、参加者のある方がここは昔は川だったと言われていました。

 

一行は急な上り坂に取り付きます。

 

道沿いにあったお宅の屋根には微妙な”むくり”がありました。

 

登り始めて振り返ったところ。

 

道はだんだん険しく、狭くなって行きました。

 

振り返るとすでに5階建ての高さ位。

 

道の半分だけ階段がついている急坂になりました。

 

振り返ったところ。

 

最後のところはこの狭さ。

 

振り返ったところ。

 

鉄塔の立つ公園に着きました。

 

来た道と反対側も切れ落ちていて細長い島状になっていました(下は日吉公園)

高低差は30m以上あるようです。

 

その東の突端に、かつて日吉矢上(ひよしやがみ)古墳があったそうです。

この方向の数十m先とのこと。

 

下記はいただいた資料の「日吉矢上古墳」の項から。

昭和11年、慶応大学・三田史学会が緊急に発掘調査。直径24m、高さ4m位の円墳。出土品は鼉龍(だりゅ)鏡2面(直径約20cmの同笵鏡)、鉄剣、鉄鏃、竹櫛、歯冠、玉類1700点、円筒埴輪の1基分破片。国宝に。5世紀後半の築造。

 

出土品の写真はこちらにあります。

武蔵国日吉矢上古墳出土品 文化遺産オンライン

慶應大学のサイトにも。

慶應義塾の文化財:[慶應義塾]

 

尾根のようになっている公園を西に進んでいくと、建物や樹木がないところではいい眺望がありました。墳丘は消滅してしまいましたが、かつての墳丘からの眺めを想像することはできました。

 

遊具のある公園に出て振り返ったところ。

 

公園の端に説明板がありました。写真右端の赤い丸が矢上古墳のおおよその位置。

矢上上ノ町(やがみかみのまち)遺跡群
下末吉台地に相当する日吉公園と周辺地域では、縄文・弥生・古墳時代の遺跡が数多く存在していたことが、古くからの研究者の間で知られていました。
昭和58年には、この公園一帯の発掘調査が横浜市教育委員会によって行われました。
弥生時代後期から古墳時代前期につくられた竪穴式住居跡が6軒重なり合って発見され、およそ1800年前から1600年前の古代のムラが営まれていたことが明らかになりました。
また、北西側の小支谷の谷頭斜面からは、およそ1400年前の古墳時代後期につくられた横穴墓がA・B支群合わせて6基確認されています。
東側の台地上では、約1500年前の矢上古墳が慶応大学によって昭和11年に調査されています。
径20mの円墳で、鏡・鉄鏃・竹櫛・玉類・埴輪片等が発見されました。
解説文提供:横浜市教育委員会文化財課 

 

日吉公園に向かって下り始めると弥生~古墳期の竪穴住居跡がありました。

 

縄文海進期は海だったところは”建物の海”になっています。奥は武蔵小杉の高層ビル群。

 

この崖の先に、かつて矢上古墳があったようです。

 

その位置から坂道を振り返って。左側が台地です。

 

下りきると「日吉公園」の表示板がありました。

 

その先は矢上川。

この川沿いに歩いて、観音松古墳跡へ向かいます。

つづく。