墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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観音松古墳跡 神奈川県横浜市港北区日吉

前回の、ツアーのつづき。

日吉公園を矢上川(やがみがわ)へ降りて、川沿いに下流へ向かう。

途中東横線の下をくぐった。

 

日吉矢上古墳がかつてあった日吉台は矢上川下流方向へ進むと、この東急線と綱島街道が通る場所で一旦標高が下がり、慶應大学矢上キャンパスの台地で再び標高を上げて同じ位の高さになる。

ガイドの方から、かつては台地が続いていたものが鉄道や道路の工事でその部分を削平したのかも知れないという説が提示され、興味深く思った。

 

綱島街道を渡ると慶應大学矢上キャンパスの縁になり、周囲は静かな雰囲気になった。

 

川の左岸には団地があったが、敷地の桜並木は大木だった。

 

矢上キャンパスの理工学部の建物。

 

その台地を貫く新幹線のトンネルがあった。

 

東京駅を出て最初のトンネル。多摩川を渡ってすぐ、新横浜より東京寄り。

 

さらに200mほど下流で台地が途切れ、川が90度向きを変える。

 

道沿いにはアジサイが咲き始めていた。

 

まだ”白っぽい”が鮮やかだった。

 

こちらはキョウチクトウの白い方。

 

アオイも。

 

矢上川が右にカーブするところで、北から来た渋川と合流する。渋川は、多摩川から取水された二ヶ領用水の川崎掘から分流している。

 

歩いてきた道を振り返ったところ。

 

そのまま道なりに進むと右手に矢上小学校の建物が迫ってくる。

この場所にかつて観音松古墳があった。古墳があった台地先端部を削平して小学校が建設された。

 

この日は運動会で大賑わいだった。

 

少し先の矢上橋から見た矢上小学校。建物の上から樹木が見えているように、かつては大きな松の木が墳丘に立っていた。矢上川の対岸に観音様があったので観音松と呼ばれたそうだ。

墳丘は左側(南西方向)に後円部、右側(北東方向)に前方部を向けていたとのこと。

 

こちらの方のサイトには昭和9年9月竣工の矢上橋と観音松の写真がある(観音松の不思議な話も)

 

矢上橋から下流方向。

 

川底は浅く、大きな岩盤が露出していた。

 

矢上川の土手で、かつての墳丘跡を眺めながら観音松古墳についての解説を伺いました。

観音松古墳は横浜市港北区唯一の大型前方後円墳(全長86m)で4世紀末の築造。矢上川を隔てて南東500mほどの位置にも同時期同規模の白山古墳(全長87m、4世紀末)がかつてあり、2つの墳丘が残っていたら特別史跡級に違いありませんでしたが、昭和になってからの土取りや造成で消失してしまいました。

 

観音松古墳は昭和13年に慶應大学が発掘調査を実施しましたが、発掘報告書が未発表なので墳長、方位、一部の出土品の情報が現在も錯綜しているところがあるそうです。今回のツアーで解説をされた下里氏もさまざまな史料にあたったり考古学者から話を聴いたりして、苦労されて正しいと思われる情報をつかんでおられました。

 

この直前に訪ねた日吉矢上古墳が昭和11年の発掘、この後向かった白山古墳が昭和12年の発掘ですが、どちらも慶應大学が日吉にもキャンパスを設けたことがきっかけになっています。矢上古墳は直径24mの円墳(煙滅)ですが、その後2つの大型前方後円墳を”発見”するきっかけとなったという意味で重要な古墳だったことも知りました。

大変貴重な話を伺えました。ありがとうございました。

 

つづく。