前回のつづきの岩戸山古墳。
くびれ部近くの土俵(?)、左奥が後円部。

くびれ部あたりの説明板。

国指定史跡 八女古墳群
岩戸山古墳
指定年月日:昭和30年12月23日(名称変更 昭和53年3月24日)
所在地:八女市大字吉田字甚三谷
八女丘陵は東西10数㎞におよぶ丘陵である。この丘陵上には11基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。八女古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、東西方向に墳丘長約135m、東側の後円部径約60m、高さ約18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり、周濠、周堤を含めると全長約170mになる。墳丘は二段築造で内部主体は未発掘のため不明である。
古墳の東北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。
岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰岩でつくられた他r標な石製品が墳墓とともに出土している。種類も人物(武装石人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪~犬?等)、器材(靫・盾・刀・坩・蓋・翳等)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本としたところに特徴がある。筑紫君磐井(つくしのきみいわい)
約1500年前の古墳時代後期に当地を含めた現在の福岡県南部地域を拠点として活躍した大豪族である。
奈良時代に編纂された古事記や日本書紀には磐井に関する記述が残っており、日本書紀では「磐井は西の戎の姧猾(かだましきやつこ)なり。川の阻しきことを負みて庭らず」とされ、悪賢く朝廷に仕えない人物として評価されている。
また、磐井は西暦527年に火国・豊国(現肥前・肥後・豊前・豊後)と共に叛乱を起こし、翌528年には筑紫の御井群(現久留米市の三井周辺)において決戦が行われ、磐井は斬られたとも記されている。
しかし、筑後国風土記(逸文)には「豊前の國上膳の縣に遁れて、南の山の峻しき嶺の曲に終せき」とあり、現在の豊前市付近に敗走したと伝えられている。
この記述は、磐井が地域の盟主であるが故に生かしておきたいと郷土民の強い想いであったのかも知れない。
2015年11月 八女市教育委員会
墳丘の南側にある戦没記念碑。

たまたまガイドの方がご夫婦に説明されているのを横で聞いていて、この石が岩戸山3号墳の天井石だったことを知りました。

前方部南側の鳥居。

高さがあります。

上がった先の社。

その左手、前方部の先端側。

そこから見通す後円部方向。

鞍部から見上げる後円部墳頂。

ちょっと登って振り返って。

後円部墳頂の玉垣。

後円部先端方向。右下には別区。

後円部墳頂から見る前方部方向。

前方部へ戻って石段を降ります。

墳丘から降りて、前方部先端側(右)の広場へ。

周囲が雄大な古墳ですね。

前方部左隅側から。奥が後円部。

スマホ広角で。右が前方部先端側、左奥が後円部

2024年11月下旬訪問