前回の父塚古墳の前には、25㎞南の荒神山にいました。
麓での現地説明会の後に、山頂の神社と墳丘へ。
説明会場そばの小径を登っていくと車道に出ます。この分岐を右、が徒歩ルート。

登って来た小径は”ウォーキングコース”でした

さらに登ると立派な石段が。

城郭のような雰囲気。

上がった先に、荒神山神社の拝殿がありました。

社務所、書院、書院中門が市指定文化財。

令和6年 彦根市観光文化戦略部 文化財課
市指定文化財 荒神山神社 社務所・書院・書院中門■荒神山神社の概要
荒神山神社は、かまどの神様を祀る神社である。江戸時代には厄災を祓う奥山寺三宝荒神として信仰されたが、明治初年の神仏分離令によって奥山寺は廃止となり、現在の荒神山神社へと改称された。
主要な社殿は荒神山の山頂に位置し、東側山麓から山頂部まで、石段の参道が続く。参道入り口にある遥拝殿(市指定文化財)、大鳥居、山頂部の本殿・拝殿・神饌所・神楽殿は、いずれも神仏分離以降に成立した荒神山神社に伴うものである。そして社務所と書院、書院中門については、江戸時代に存在した奥山寺時代の遺構であり、彦根市の指定文化財となっている。
荒神山神社に伝わる文書によれば、江戸時代の奥山寺 は井伊直政の彦根入部以来、代々祈祷を勤め、大坂の陣にあたっては井伊直孝の戦勝祈願を行い、その功から護摩堂、書院の建立・奉納を受けている。
以降も、代々の藩主から寄進を受けており、江戸時代 を通じ、手厚く崇敬されていた様子が伺われる。■社務所
棟札に「天保十年九月十八日」、桟瓦葺き大棟南端の鬼瓦には「天保十二年」の銘があることから、建築年代は天保10年(1840)から12年(1842)頃とみられる。
建物の一部に近年の改造や改修がみられるものの、土間・座敷を中心とする主屋部分は建築当初の状態を良く残しており、奥山寺時代の住居遺構として貴重である。■書院
社務所とは畳廊下で繋がる建物であり、屋根は桟瓦葺きの寄せ棟となっている。座敷には床の間、違い棚、出書院などがあり、次の間、控え座敷、畳廊下など、藩主ための客座敷としての体裁が整えられている。建築年代は不詳であるが、柱面の風触状態から社務所と同時代か、やや遡る19世紀前期頃の建築と考えられる。■書院中門
書院中門は薬医門となっており、屋根は桟瓦葺きである。腕木の先、禅宗様の木鼻の上下に描かれた渦紋様の輪郭線は、17世紀後半に遡るものである。桁から上部には軒天井が張られる。妻(この場合は門に向かって両側面)側には間斗束が立てられており、その様式から19世紀前期に改修されたものと考えられる。
”神牛”の像も。

神社の周囲にはあちこちに山桜。


東側が開けたスポット。

ズームで。

ハンググライダー場からは西側、琵琶湖と対岸の山並みが良く望めました。


2025年4月中旬訪問