墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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白百合女子大学めぐみ荘(旧菊池家主屋) @東京都調布市緑が丘

東京文化財ウィークの一環で11月2日~5日で、 仙川の白百合女子大学構内の明治前期(~江戸期)の大型民家の公開があったので行ってみた。

 

もともとは伊豆修善寺で名主や代官を務めた菊池家の格式高い主屋。

内部の観覧は往復はがきでの申込みが必要になっていた。

「めぐみ荘」特別公開イベントのお知らせ|白百合女子大学

 

 

京王線の仙川駅から北に徒歩10分ほど、甲州街道を渡り「仙川」を越えた傾斜地の先に大学があった。

 

仙川の下流方向。

 

正門があったが見学者はその先の東門からと聞き、さらにゆるい坂を上っていった。

道の名は「白百合学園通り」

 

途中の素敵な二股道。左が大学敷地。

 

東門守衛室で名前を記入して大学内へ。構内は「めぐみ荘」以外は撮影不可とのことだった。

 

矢印に沿って歩いていくと、白い石が敷き詰められた庭のある日本家屋が現れた。

「めぐみ荘」は移築されて白百合女子大所有になってからの名前だった。

江戸期までは伊豆修善寺にあった菊池家主屋だが、昭和8年(1933)ごろに中将湯本舗津村順天堂の創業者・津村重舎が譲り受け、この地に開設していた津村薬用植物園に移築した。極力原型を保つため、解体したすべての部材をトラック40台以上で運んだそう。

津村重舎はここを、裏千家宗家を招いた茶会の場としたり、宮家を植物園視察に招いた際の休憩所とした。戦時中には杉山元元帥以下首脳部の秘密会議場にもなっている。

その後1955年から帝国石油の所有となり、1965年に白百合女子大が土地を購入して千代田区九段から移転してきた。

 

玄関の前から見た庭。

 

この日は小雨模様で訪問者も少なかったので、見に来た人はみな内部見学できるようになっていた。

 

お座敷部分。当初は藁葺き屋根だったものが後に許可されて瓦葺きになったとのことで、瓦葺きにしては急な屋根勾配。しっかり瓦が見えた。

 

移築前の建物見取り図もあった。座敷は「六ツ間取り」の形式。

「中の間」には格式の高い家に作られる式台(来客用の玄関)が付いた痕跡がある。

 

現在の入口をはいると、かつての土間が板の間のホールになっていた。太い大黒柱が聳えていた。文化庁の登録では確実に遡れる「明治前期」としているが、建築様式では江戸後期のものと推定されるそうだ。

 

梁も巨大。上に米俵を置いても隠れてしまう梁の太さ、と説明があった。

 

土間部分には天井がなく、高い屋根を支える梁の構造を観察できた。最上部に腰屋根があり、採光・通風用の窓がある。

 

右は土間の反対側の大黒柱。格子戸の向こうは家族の茶の間(板の間)と右に上り口の広間。

 

かつて「式台」があった中の間の縁側。太く張り出した梁が玄関の雰囲気。

 

下座敷と上座敷の欄間は軽やかな細工。

 

座敷の内縁。幅のある板が横方向に渡されていた。

 

 現在の中の間に設けられた床の間には、当家の菊池袖子(1786~1838・江戸後期の歌人)筆の長歌などが展示されていた。

 

上座敷床の間に飾られていた「豆州三老図」

菊池家が代々家宝としてきた江戸後期の絵画で、文化10年(1813)に菊池武教・袖子の父娘が祖父隆政80歳、叔父武俊75歳、同武親72歳の長寿を盛大に祝った宴が描かれている。

 

上座敷付書院の桟の、見事な意匠。

 

座敷から見える庭。

 

庭の後ろには学校建物が迫る。白百合大となってからも一度曳家で位置が動いている。

 

現在この建物は、クラブ活動などで多目的に使用されているとのこと(下記の大学のサイトより)

白百合女子大学11号館めぐみ荘のお話し

 

建物だけでなく庭も丁寧に整備されており、未来に残していけるように大事に使い続けられているように感じました。

関係者のみなさま、当日めぐみ荘で対応していただいた学生さん、誠にありがとうございました。