墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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野古墳群・前編(2・1号墳) 岐阜県揖斐郡大野町大字野

前回の願成寺西墳之越古墳群からは揖斐川を左岸に渡って、大野町の野古墳群へ。

 

グーグルマップのルートをそれて農道を。

 

ズームすると複数の墳丘が!

 

振り返った景色。

 

北側を。濃尾平野の北端です。

 

南側を。伊勢湾までは50㎞。

 

広い駐車場に着きました。

 

こちらが説明板です。

国史跡 野古墳群
指定:昭和32年7月10日
追加指定:平成元年3月7日
追加指定:平成26年10月6日
わずか東西400m、南北500mの範囲に、前方後円墳や円墳、方墳が密集して築造された、美濃の古墳時代中期を代表する古墳群です。
東海地方では、これほど密集する古墳群はほかにありません。
80m級の前方後円墳4基をはじめ、20~60mほどの帆立貝形前方後円墳や方墳など、9基の古墳が現存していますが、これまでの調査でほかに8基の古墳があったことが判明しています。
野古墳群では多くの古墳で埴輪や葺石が出土しています。埴輪には尾張地方の影響が強く表れ、密接な関係がうかがえます。
副葬品では南出口古墳(5号墳、通称「城塚」)から出土した「鎏金(りゅうきん)獣帯鏡」が有名です。国内の古墳から出土した鍍金(=金メッキ)鏡は3面しかない貴重なもので、重要文化財に指定されています。
野古墳群は、5世紀前半の乾屋敷古墳(6号古墳)の築造が古墳群築造の契機と考えられています。その後の築造順序については諸説ありますが、おおむね6世紀初め頃までの約100年間に集中して築造されたようです。
野古墳群の築造が始まると、なぜか、美濃の他の地域では前方後円墳の築造が停止し、5世紀の終わりには野古墳群以外の造墓活動はほぼ見られなくなります。どのような理由があるのでしょうか。興味は尽きません。

大野町

 

マップのアップ。

 

もう1つの説明板は、もとの説明書きが見られない状態でした。

 

さっそく駐車場のそばに見えていた墳丘へ。不動塚古墳の碑とともに。

 

それが2号墳(不動塚古墳)でした。全長62.5mの前方後円墳。

国史跡 野古墳群
不動塚古墳(野2号墳)
昭和32年7月10日指定
所在地:岐阜県揖斐郡大野町大字野字不動塚
前方部一段、後円部二段築成の前方後円墳です。墳丘は東側が道路によって若干削平されていますが、比較的良好に現存しています。前方部は方形、後円部は急傾斜をもって立ち上がり墳頂平坦部が比較的広いことが特徴です。
試掘確認調査と地中レーダー探査により、墳丘の周囲に馬蹄形の二重周濠がめぐることがわかっており、中堤にも埴輪列がめぐっていたと考えられています。主体部は未発掘です。
埴輪は円筒埴輪のほか、朝顔形埴輪・蓋形埴輪が出土しており、埴輪から6世紀前半頃の築造と推定されます。
墳丘長:62.5m
後円部:直径40m、高さ6m
前方部:幅16m、高さ1.2m
大野町教育委員会

 

前方部側から。

 

前方部越しに、西側の1号墳(モタレ古墳)を。

 

不動塚(2号墳)の南側には9号墳(右)と8号墳(左奥)

ちょっと道がわからなかったので、いったん引き返しました。

 

駐車場を西に横断して1号墳へ。

 

標柱も説明板もあります。

国史跡 野古墳群
モタレ古墳(野1号墳)
昭和32年7月10日指定
所在地:岐阜県揖斐郡大野町大字野字モタレ
後円部二段築成の帆立貝形古墳です
前方部は削平されていますが、後円部が良好に現存しています。後円部墳丘は急傾斜をもって立ち上がることが特徴です。
試掘確認調査と地中レーター探査により、墳丘の周囲に馬蹄形の周濠がめぐることがわかっています。主体部は未発掘です。
周壕から出土した須恵器(陶邑TK23型式)から、5世紀後半の築造と推定されています。
墳丘長54m(推定)
後円部:直径37.4m、高さ6.7m
大野町教育委員会

 

帆立貝形古墳とのことなので、手前側に小さな前方部がついていたのでしょうか。

 

西を見ると先ほどの2号墳(不動塚古墳)

 

南側の小麦畑越しに。左が1号墳(モタレ塚)、右が2号墳(不動塚)