以前に訪ねたことも記憶に新しかったが、7年も経っていた。
吉見百穴、野本将軍塚古墳、菅谷館跡、稲荷塚古墳 - 墳丘からの眺め
小三だった長男は高一に。速いです。
その野本将軍塚古墳は、前回の柏崎古墳群から1㎞ほど南西にある。
東松山市野本市民活動センターの駐車場から見た墳丘。左に後円部、右に前方部。
後円部に近づいて。 結構高さがある。
左が後円部で、右奥に前方部が続く。
後円部を先端側から。
道路沿いにある説明板。
野本将軍塚古墳
昭和35年3月1日 県指定史跡
将軍塚古墳は、県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。墳丘の大きさは、全長115m、高さ前方部で8m・後円部で15mです。
まだ学術調査が実施されていないので、内部主体(埋葬施設)や外部施設(埴輪など)は明らかではありません。
将軍塚古墳を中心に、東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪古墳群、西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布しています。このような古墳の分布は、古墳時代すでにこの地方が、高度の社会的発展をとげていたものでしょう。
昭和53年3月 東松山市教育委員会
「さきたまの古墳めぐり」の野本将軍塚の項によれば、 2017年10月に市教育委員会と早稲田大学による非破壊調査がなされ、築造時期が4世紀後半と示されている。
野本将軍塚の全長115mは埼玉県下で3番目の規模だが、さきたま古墳群にある1位の二子山古墳(全長138m:6世紀初め)・2位の稲荷山古墳(全長120m:5世紀後半頃)とは100年もの開きがあり、4世紀後半としては埼玉県地域で最大の古墳だったことになる。
さらに調査の結果には、推定全長は「124m」となることや、墳丘の立体構造の系譜が奈良県桜井市のメスリ山古墳になることも示唆されていた。
くびれ部の前のある鳥居には瓦屋根が。
くびれ部の階段を上がる。
階段から前方部側の斜面を。
くびれ部に上がって後円部を見上げる。
テラス部分に上がってさらに墳頂部を。
墳頂にある利仁神社。
社殿は墳頂の端に建つ。
背後の急な斜面。高さ15mもある。
後円部から前方部を。比高差7m。
前方部に移動して後円部を振り返る。
前方部上には忠魂碑が。
前方部の端まで行って後円部方向を振り返る。
前方部端から先端側。
前方部側面、忠魂碑の前に設けられた石段。
すぐ北側の無量寿寺の参道前の石仏。前回訪問時も撮っていた。