墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

神花山古墳 山口県熊毛郡平生町大字佐賀

神花山(じんがやま)古墳は柳井茶臼山古墳の南西9㎞弱、瀬戸内海に面して立地。

グーグルアースでは小島のように見える。

 

トイレもある駐車場完備。

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墳丘への道も舗装されている。 

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標高40m近く登って墳裾に到着。

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 斜面に説明板が。

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「甦った古代の女王 神花山古墳」の解説は非常に詳しかった。

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縄文期から説き起こす「古代の平生」 

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古代の平生
瀬戸内海に面したここ平生の地では、古く縄文時代から人々の生活が展開していました。彼らは、海浜で魚や貝をとり、野山で木の実を採集し、狩猟を行っていました。佐賀にある岩田遺跡はこうした彼らの集落です。
今から約2300年前、米作りを中心とする弥生文化が西から伝えられると、彼らは積極的にその文化を吸収し、またその文化を瀬戸内の東の地方に伝えました。今より海が深く湾入していた平生では、米作りの集落は、大野から松尾にかけての丘陵につくられ、海岸に面した湿地を水田に利用していました。松尾遺跡はこうした集落の代表的な遺跡です。
弥生時代も終わりに近づくと、瀬戸内地方では戦乱が発生し、集落は眺望がきき、防御に有利な山の頂上に営まれます。こうした集落を高地性集落と呼び、吹越遺跡はその代表的な遺跡です。
戦乱が終わると、広い地域を支配する大豪族が生まれました。彼らはしだいに、国内の統一を進めていた大和政権との結びつきを強め、全欧後円墳などの大規模な古墳を造り、勢力を誇示しました。神花山古墳は、5世紀前半頃こうした豪族が築造した古墳です。
山口県には、現在前方後円墳が20基ほど知られていますが、平生には神花山・阿多田・白鳥の3つの古墳があります。なかでも佐賀の白鳥古墳は5世紀中頃に造られた前方後円墳で全長120m、県内最大の古墳です。
これらの古墳を築造した豪族は、大木崎古墳などを作った各地域の有力集落の長などを支配下におき、瀬戸内の海上交通をおさえて大きな勢力を持っていたと考えられます。
古代の平生は、このように周防地域でももっとも中心的な地域であったと思われます。 

(測量図の方位は北が上となっているようですが逆では?)

 

神花山古墳は5世紀前半頃に築造された前方後円墳で全長30.3m。2段築成の後円部は径16.6m・高さ2.5m、前方部は幅9.6m・高さ1.75m。

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発見と古墳の概要
神花山古墳は、田布施川河口に面した標高39mの神花山の頂上部に築かれた前方後円墳です。
昭和19年頃、旧海軍の高射砲陣地構築の際に発見されたもので、後円部のほぼ中央にある石の棺の中からほぼ全身の人骨が発見されました。終戦後、駐留軍が古代人の標本として持ち去ろうとしましたが、地元の人々の強い願いで頭骨が残され、古墳に建てられたほこらの中に大切に祀られました。
古墳は、南側が土砂の採取により損壊を受けているものの、全長30.3m、後円部の径16.6m、高さ2.5m、前方部の幅9.6m、高さ1.75mの規模を持ち、墳丘は2段に築造されていました。また、古墳の前面は石で覆われ(葺石)、古墳の外周部と段のテラスには円筒埴輪が配されていたと思われます。築造された時期は5世紀前半頃と思われます。
石の棺は組合式箱式石棺と呼ばれる、板石を箱形に組み合わせて作った棺で、長さ1.75m、幅0.37m、深さ0.35mの規模を持っています。
人骨は長崎大学医学部の行った鑑定により、20歳前半の美貌の女性であることが判明しました(古代の女王説明板参照)。前方後円墳は大和地方で発生し、後に大和政権との関係を深めた地方の豪族が次々と築造した墓です。神花山古墳も、この地域に君臨した豪族が築造したものであり、発見された女性の人骨は、この豪族の若き女王(首長)であったと思われます。
この豪族は当時旧熊毛郡や玖珂郡の一部に君臨した周防国造と称する大豪族か、あるいはそれに関連の深い豪族であったとみられますが、いずれにしても神花山古墳は周防地域の古代史を考えるうえで貴重な遺跡です。昭和57年に県史跡に指定されました。

 

保存整備についても丁寧に解説。

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保存整備の経緯を内容
平生町には多くの文化財がありますが、これらの文化財は大切に保存し、後世に伝えていくことはもちろん、多くの町民が学習や憩いの場として活用できるように整備を行っていく必要があります。
平生町では町内の文化財を整備し、それぞれの文化財をつなぐ探訪ルートの整備を行っていく予定ですが、まずこのルートの中核的位置をしめる神花山古墳の整備を行いました。
神花山古墳は、標高39mの丘陵の頂上部にありますが、長年の風雨により古墳の盛土が流出し、南側が土砂採取により損壊しており、文化財の保存にとって危機的な状況でありました。
そこで、遺跡の保存と活用の方法を検討するため、昭和62年度に「神花山古墳保存整備計画策定委員会」を発足させ、次のような方針のもと整備を実施することにしました。
1.古墳の規模を確認し、古墳全体に20~30㎝の土を盛り、遺跡を保護し、その上に当初の古墳の姿を復元する。
2.石の棺は砂で埋め戻し、盛土の上に新たに同質の石材で復元する。
3.古墳の表面は土砂の流出を防ぐため芝を張るが、後円部の一部(約6分の1)は葺石および埴輪を復元する。
4.古墳の周囲には彼岸花を植え、女王の墓のイメージを強調する。
5.古墳の周辺には園路や説明板などの活用施設を整備する。
整備事業は昭和63年度から着手し、同年中に古墳の規模確認のための試掘調査、実施設計、古墳の整備事業を実施、平成元年度に園路工事や説明板の設置を行い終了しました。事業は1~3の事業を県の補助事業として、3の一部と4・5の事業を町の地域経済活性化緊急プロジェクト事業で実施しました。
なお、試掘調査は山口県埋蔵文化財センターに、埴輪製作は堀越焼(防府市)と賀谷初一氏に依頼しました。 

 

見上げた後円部。右は葺石や埴輪が復元された斜面。

上記の概要にある墳丘の高さ(後円部2.5m、前方部1.75m)より随分高く感じたが、見えている手前側の埴輪列が墳裾の位置だったようだ。

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さらに回り込むと顔写真付きの解説。

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出土した頭骨から復元された「女王像」だった。

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神花山古墳出土人骨復顔について
神花山古墳は5世紀初めの前方後円墳で、昭和19年に旧陸軍が高射砲陣地を構築した時、箱式石棺からほぼ全身の人骨が見つかりました。後に米駐留軍が古代人の標本として持ち帰ろうとしましたが、地元の人々の強い願いで頭骨だけが地元に残されました。この古墳人は長く壮年の男性と鑑定されていました、昭和62年に再鑑定したところ、20歳代半ばの女性の頭骨と確認され、当時の長崎大学医学部の松下考幸助教授によって復顔されたものです。
山口県では古人骨の出土例はけっして少なくありません。しかし、古墳時代人骨の出土例はそれほど多くなく、しかも首長墓に女性が単独で埋葬されていた例は、全国的にも珍しいものです。
この人骨は、考古学的所見から古墳時代前期末から中期初頭に属する人骨で、人類学的観察と計測を行い、県内での検討を行った結果、この頭蓋には長頭傾向「低・広顔」傾向があり、このような傾向は県内の大判古墳人・朝田古墳人・西ノ木古墳人(注1~3)にもある特徴です。しかし、県内の単独首長墳から出土した兜山古墳人(注4)には高上顔傾向があり、赤妻古墳人(注5)も狭顔
高上顔傾向があり、この2例は異質な古墳人であったと考えられます。
県内の弥生人や古墳人と検討した結果では、神花山古墳の女性被葬者が他所からの移住者ではなく、おそらく、本来この地域に居住していた豪族の女性首長と考えられます。
この女性首長は当時、長い髪を板状に束ねた「太古島田」をゆい(当時の梅光女学院大学木下尚子講師の考察による)、管玉と勾玉をつないだ首飾りや耳環をつけていたと思われます。また、魚介類を主食にしていたとみられ、ほおやあごがしっかりしていて、鼻が高く、目鼻立ちがすっきりとし、鼻根部の形態や上顔部のプロポーションから判断して、比較的整った顔貌の持ち主だったと思われます。
注1:大判古墳は山口市吉敷にあります。
注2:朝田古墳は山口市朝田にあります。
注3:西ノ木古墳は長門市にあります。
注4:兜山古墳は山口市秋穂二島にあります。
注5:赤妻古墳は山口市赤妻町にあります。
平生町教育委員会

 

後円部先端側に進むと階段への階段がついていた。 前方後円墳の墳丘は縦半分の北側のみが残る。

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振り返った足元には「阿多田古墳」の写真と解説を記した陶板。

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阿多田古墳
所在地:平生町佐賀
当時、平生町の小島であった阿多田島の頂上に築かれた前方後円墳です。大きさは全長40m、後円部径24m、高さ3.5m、前方部幅16m、高さ2m。県内では数少ない古式の古墳で、墳丘の原形はかなり失われていますが、古墳の全面をおおっていたと思われる葺石がよく残っています。
後円部中央に畿内系の竪穴式石室があり、副葬品として捩文(ねじりもん)鏡1面、勾玉・管玉各1個が出土しています。現在これらの遺物は白鳥神社に保管されています。 

 

かつては後円部先端方向(西側)に、阿多田古墳のある小山が見えていたのだろう。距離はここから1.2㎞ほど。

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柳井茶臼山古墳の墳裾にあった神花山古墳の説明板には、西側の見晴らしがよさそうな写真が使われていた。 

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墳頂へ上がって振り返って。

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そこから右を見ると復元部分。後円部は2段築成で手前の埴輪列がテラスに載っている。

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墳頂には石棺の蓋(のレプリカ)

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この頭骨からあの美貌が。

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石棺と人骨について
死者を葬るために入れる石製のひつぎを石棺と言いますが、この古墳の石棺は数枚の板石を組み合わせたもので「箱式石棺」と呼ばれています。石棺は前方後円墳と呼ばれる古墳の後円部のほぼ中央に設けられており、戦時中に高射砲陣地が構築された時偶然に発見されました。
石棺の大きさは、内寸法でおおむね長さ160㎝、最大幅50㎝、深さ30㎝です。石棺の内側には、神聖な色である朱が塗ってあり、ほぼ全身の骨が残っていました。
人骨は、終戦時進駐していた外国人が持ち去ろうとしていましたが、地元の人々の協力で頭骨だけが取り戻され、現地に保存されていました。この古墳に埋葬された人は、頭骨の鑑定の結果、20歳代前半の若い女性でこの地方一帯を支配していた首長、すなわち若き女王であったと考えられています。全国的に見ても、前方後円墳に女性首長が埋葬された例は少なく、学術的に大変貴重です。なお、この石棺は複製されたもので、本物の石棺は、この下に当時のままの状態で保存されています。

 

実物の石棺もこの下に埋め戻されている。 

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かろうじて円形に残る墳頂から、瀬戸内海を望む。

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 パノラマで。素晴らしい景色。

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左から伸びている尾根の形に注目。

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前方部裾に「白鳥古墳」の説明があった。

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白鳥古墳
山口県指定史跡
所在地:平生町佐賀
指定年月日:昭和46年1月12日
古墳時代の中頃(5世紀)に造られたと考えられる県内最大の前方後円墳です。大星山山系から周防灘に向かって張り出した丘陵地に築かれています。
古墳の大きさは、長さ約120m、後円部径約64m、高さ約8m、前方部幅約62m、高さ約7.5m。墳丘は三段に築かれており、全面が葺石で覆われていました。古墳の周囲には周濠がめぐっています。また円筒埴輪や形象埴輪などもたてられていたと思われます。
後円部墳丘には、白鳥神社が祀られており、寛延2年(1749)の社殿建築の際に「石櫃」(箱式石棺)が見つかりました。中から二神二獣鏡1面、四神四獣鏡1面、管玉11個、巴形銅器5個、鉄斧5個、鉄刀3片などの副葬品が出土しました。これらの出土品は、昭和56年に県指定有形文化財になりました。 

 

手前側の尾根影が先ほどの形と同じ。白鳥古墳はここから2.5㎞の距離。

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 南南西方向。右が馬島、左が佐合島。

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馬島の右、南西方向。 右の煙突のすぐ先が阿多田古墳のはず。

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後円部から前方部を。

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前方部から後円部を。

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前方部の西側に、巨大な像が。 

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古代女王の像だった。

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かなり読みにくくなっていた説明板。台座も入れると高さ10m近い。

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神花山古墳古代之女王像
この女王像は「ふるさと創生」事業の第1号として設置されました。平生町民のみなさんのアイディアの中から、町総合計画審議会で検討し、実施したもので、真に平生町の「ふるさとの創生者」です。

ポーズ
この地域を治めた首長としての威厳をもち、女性としてのやさしさや美しさを表現しています。右手はやさしくかかげ、手のひらを下に民□□め、左手は女性らしく鏡を胸に持っています。

像の向き
この女王像は「日出づる」東を向いています。これは神花山の地形や古墳の造られた位置や向きを考慮したものです。

服装
高貴な女性ですので、薄い麻か絹を身体に巻き付けたような着方をしていますが、その布は海からの風を受け、彼方になびいている感じを出しています。

手に持つ鏡
首長としての持ち物には「三種の神器」(鏡・玉・剣)むがあります。玉は勾玉、管玉の首飾りとして首にかけています。鏡をもっているのは、古墳の主が女性であることから、剣よりは鏡の方が女性らしい表現で、ふさわしく思われるからです。なお、神花山古墳からは鏡は出土していませんが、同町の白鳥古墳からは、二神二獣鏡が出土しています。
像の高さ:6.25m
台座の高さ:3.25m
製作材料:FRP(強化プラスチック)
製作指導:山口県埋蔵文化財センター
平生町

 

下から見上げて。どんな服装か気になったがよくわからなかった。

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台座の脇の急坂から駐車場へ戻った。

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