すでに昨年終了した展覧会です。(2019年10月4日~10月27日)
エントリのタイミングを迷っていた間に、かなり時間が経ってしまいました(写真多めです、50枚程)
雪野山古墳は滋賀県東近江市の雪野山山頂に立地する、古墳時代前期(4世紀前半)に築造された前方後円墳。全長は70m。
平成元年、展望台設置工事前の試掘調査で竪穴式石室が見つかり、三角縁神獣鏡3面が発見された。その後の発掘調査で「未盗掘」であったことが判明。
当展では鏡の他に漆製品の靫(ゆき:矢筒)や鉄製の小札冑(こざねかぶと)なども出展されたが、被葬者の権力を象徴する豊かな副葬品は一括で重文指定を受け、古墳も国史跡に指定された。
発掘調査は大阪大学が実施しているが、明治大学佐々木憲一教授が携わっていた縁で、今回の明治大学博物館での展示となった。尚、本展の主催者には明治大学の他に東近江市も入っていた。
会場入り口前には、埋葬施設(竪穴式石室)発掘時の原寸大の平面写真が。
東近江市からは”飛び出し坊や”も。
会場入ってすぐの壁には、竪穴式石室の床面からの大パネルも。
会場は静かな熱気に包まれていた。 撮影可。
雪野山の航空写真。 独立山塊の山頂、標高308mに立地。
雪野山古墳の竪穴式石室発掘調査時の写真。(現在は埋め戻されています)
実測図と調査時写真。地形を生かして造られている。
墳丘と主体部についての解説。
雪野山古墳は、雪野山の頂上部に後円部、それに続く尾根が前方部となる「前方後円墳」です。
墳丘の築造は地形を活かし、突出した地形は削り、逆に窪んだ部分には土を盛って、形作っています。斜面には葺石を貼り付けていますが、自然の岩肌を削っただけの部分もあります。なお、埴輪は据えられていませんでした。また中世には、後円部を主郭とする「山城」が築かれるなど、墳丘全体に後世の改変が加えられています。
後円部の墳頂平坦面やや東よりの位置に、ほぼ南北方位(N-11°-E)を主軸とする竪穴式石室があります。木棺は、両端に輪状の突起がつき、底がゆるいカーブを描く「舟形木棺」です。材質は「コウヤマキ」が使用されています。
床面から高さ70~80㎝の所で石積みの裏込め部分を調査したところ、砂質土を使って堅く締まった面をつくっていることがわかりました。またこの高さは、木棺が納まる高さと推定されます。この段階で、副葬品の配列、木棺の蓋の搬入、石室構築の中断があったと考えられます。また火を使った痕跡である炭化物が出土しており、石室構築過程と儀式経過の対応関係が理解できる重要な調査成果となっています。
木棺の埋納、壁面の構築後は、天井石を置き、粘土で被覆し、石室の輪郭を縁取るように平石を並べて完成です。
副葬品の配置を示す図。石室部分の全長は6.1m・高さ1.6mになる。
盗掘を受けなかったので、副葬品の当初の配置や”セット関係”がわかる貴重な事例となっている。漆が塗られたものが多い。
こちらが、”目玉展示”(おそらく)の靫(ユキ:弓矢の背負い箱)
副葬された2つの靫のうち、棺の中にあった方。黒漆塗りの革製で、水銀朱で着色されている。漆のおかげで1700年近くを経ても、原型がわかる形を留めた。
発掘時は筒状になっていたものが、側面(矢筒部:64.6㎝)と底部とに分けて、特別専用ケースに保存されている。
絹糸で編み上げられた菱形文様が、くっきりと残っている。
もう一方の靫は棺の外、石壁との間にあった。
本体は織物または編物製の布で作られ、やはり漆が塗られていた。
靫の説明パネル。
靫は鏃(やじり)とともに、大和王権から威信財として配布された説があるそうだ。
靫の背負い板や蓋と推定される跡(漆の被膜)も見つかっていて、貴重な事例となっている。
靫を背負う姿の復元図部分のアップ。 スタイリッシュ。
あらためてよく見ると、今子供がやっている、サム・ポーター・ブリッジズを思い起こさせる。
雪野山古墳からは、漆が塗られた木製短甲も出土している。
漆が塗られていた竪櫛(たてぐし:左はレプリカ)や合子(の痕跡)も出土。
ガラス小玉や、碧玉製の紡錘車形石製品、管玉、鍬形石、琴柱形石製品も。
鏡は棺内から5面が。
1号鏡から解説とともに。
2号鏡
3号鏡
4号鏡
5号鏡
触れるレプリカも展示。
銅鏃は96本で、全国4番目の多さ。
鉄鏃は43本。
鉄鏃をつけた、矢のレプリカも展示。
こちらのバラバラになったパーツは…
冑でした。
農工漁具も。
刀剣類も。
棺内に壺形土器がひとつ。
水銀朱のサンプルも展示されていた。
最後のほうのパネルの解説。
雪野山古墳に後続して付近に立地する安土瓢箪山古との副葬品の比較から、4世紀の東アジアを概観する壮大なストーリーに魅了されました。
雪野山古墳は、卑弥呼が活躍した時代(3世紀中頃)から1段階後の「時代に位置付けられます。その頃東アジアでは、朝鮮半島の高句麗が楽浪郡を滅ぼし(313年)、大陸では匈奴が西晋を滅ぼします(316年)。また高句麗の勢力により百済と伽耶が圧迫されます。
こういった情勢の大きな変化があった時期に、当時のヤマト政権と通じる雪野山古墳の被葬者は、中国製の舶載品と推定される三角縁神獣鏡や小札皮綴冑を所有しています。これらの品々は、雪野山古墳の被葬者が直接手に入れたものではなく、ヤマト政権が入手したのちに配布したものと想定されています。このことから、雪野山古墳の副葬品には楽浪郡や西晋滅亡以前のヤマト政権と大陸との外交関係が表されていると考えられます。
一方、雪野山から北西の琵琶湖側へ直線距離で約8㎞、繖山(きぬがさやま)の西側に位置する、雪野山古墳に後出する「安土瓢箪山古墳」(近江八幡市)の被葬者は、朝鮮半島との交流を示す筒形銅器や方形板革綴短甲を所有していました。このことや伽耶地域とヤマト政権の親密な関係を表しているとされます。
2つの古墳の事例から、古墳時代前期の前半と後半を二分する画期がみられ、東アジアの情勢と外交関係の変化、ひいてはヤマト政権中枢部の政権交代までが読み解かれています。
上記を説明する図。
滋賀県内の前期古墳を示す図も。
琵琶湖の周囲に築かれていることや、古い時期には前方後方墳が多かったことがわかります。
非常に見ごたえのある展覧会でした。
会場の片隅に、現地ツアー実施のお知らせが。
11月10日実施のツアーに参加しましたので、次回から振り返っていきます。
ちなみに6年前には、琵琶湖観光船からの古墳遠望ツアーに参加しました。
https://massneko.hatenablog.com/entry/2014/10/20/150200
https://massneko.hatenablog.com/entry/2014/10/21/150200
https://massneko.hatenablog.com/entry/2014/10/22/120200