墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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諏訪神社 宮の坂 東京都北区赤羽台

前回の師団坂を訪ねた折、西に「宮の坂」との印があったので訪ねてみた。

「師団坂通り」を折れ曲がりながら進んだ先にある。

 

曲がりくねっているのは、間に東京北医療センターがあるから。

敷地の北側を回って行くと崖縁に児童公園が。

 

金網から外を見ると、真下に新幹線・埼京線のトンネルがあった。

 

その先で下り坂に。

 

途中で右(北)に、諏訪神社の参道(の飛び地?)が。

 

「袋村の庚申待供養塔群」の解説板があった。庚申塔待供養塔は板に向かった背面側(上記写真の左側に写っている)にあるが現地では見つけられずスルーしてしまった。

 

そこから社殿への参道は、切通しで削られている。

 

信号を渡って再び上る。

 

諏訪神社拝殿に参拝。

 

境内の一画の土盛り(?)の上に説明板があった。

諏訪神社
北区赤羽北3-1-2
祭神は建御名方命です。別当寺であった真頂院(足立郡川口宿錫杖寺末寺)の寺伝によれば、応永3年(1396)9月、同院第一世秀善和尚が創立したものだそうです。末社には、稲荷神社二社、八幡神社、須賀神社、白山神社、猿田彦神社があり、それぞれ、宇迦之御魂命、品陀和気命(応神天皇)、須佐之男命、伊邪那岐命、猿田彦命を祀っています。
「新篇武蔵風土記稿」には、神社の末社である丸山権現がかつての袋村の鎮守で、後にこの諏訪神社に改められたことが記載されています。
かつて社前には、袂杉と呼ばれた名木があり、神社の御神木にもなっていました。これは、真頂院の和尚が、諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉苗の内の一つでした。
現在御神木の切株や、本殿の裏に移され、残っています。
平成14年10月 東京都教育委員会

 

土盛りを別の角度から。

 

本殿裏の様子。

 

左に回り込んでいくと「昭和五年」と刻まれた石が。

 

当時の内務省が荒川筋に15ヶ所設置した水準点の「1号」とのこと。

 

後ろの林の中には説明板にあった切株が置かれていた。

 

最初に登った石段を下りると、大通り沿いに「宮の坂」の標柱が。

宮の坂
坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方向へと抜けていきます。
神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しくできた坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量の多い坂です。

 

神社を背にして東方向。右端の階段上が庚申塔がある場所。

 

上記写真の左側にも細い坂道がある。下の地図の「宮の坂」の印の上の、弧を描く道。

 

「坂学会」サイトの解説によれば、宮の坂は上記の「弧を描く道」の方が正しいようだ。

http://www.sakagakkai.org/profile/kita/miyanosaka.html

 

北区の現在の標柱や、現在のサイトを見る限りは、大通りの方と認識してしまうが…

https://www.city.kita.tokyo.jp/hakubutsukan/rekishi/fureru/bunkazai/akabanekita/miya.html

 

こんな時は「東京時層地図」を確認。中央の鳥居が現在の諏訪神社。

 

明治末期の地図にも、切通しの道はある。

 

文明開化期の地図にも、あるようにも見える。

 

結局わからなかった。

北側の袋村から丘上の諏訪神社へ行くには、「弧を描く道」は遠回りになってしまう。

しかし、神社の境内敷地に沿った坂という意味であれば「弧を描く道」の方が、正しいような感じもする。

そちらの道も機会を見つけて歩いてみたい。