墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

阿光坊古墳群 青森県上北郡おいらせ町阿光坊

三沢航空科学館見学後は南に車で25分、青い森鉄道と新幹線との間に立地する阿光坊古墳を訪ねた。

 

国道45号から枝道を上がるとすぐにトイレのある駐車場が。さすが国史跡。

 

昨年秋に立ったばかりの説明板。グーグルアースを見ると、駐車場はまだ森。

史跡 阿光坊古墳群
史跡阿光坊古墳群は、7世紀前半から9世紀後半まで営まれた大規模な古墳群です。
昭和62年、耕作中に勾玉が発見されたことにより、翌63年(1987)から平成26年(2014)にかけて断続的に発掘調査が行われ、125基の末期古墳と8基の土壙墓が見つかっています。
出土遺物は東北地方南部以南の地域から入手したと考えられるものが多く、頻繁な交流をうかがわせます。ほぼ3世紀にわたる継続期間は、この種の古墳群の中では長い事例であり、また規模が極めて大きく保存状態が良好であり、末期古墳の代表例と位置づけられます。
この地域で暮らした人々の生活実態や社会構成、当時の東北地方北部の社会状況を知るうえで重要であることから、平成19年7月26日史跡指定をうけました。面積は112,738㎡です。
なお地下に古墳が保存されているため、土を掘る行為は禁止されています。また地形も重要な情報であるため、園路以外への車両の乗り入れをご遠慮ください。
平成29年10月 おいらせ町教育委員会

 

地図の部分の拡大。この時点で、左下に資料館が記されていることに気づかなかった。

 

サインに従って上っていく。

 

 

振り返ったところ。雨が降っていた。

 

東北新幹線の高架をズーム。

 

すぐ先に、古墳の原っぱがあった。 

 

可愛らしい円墳がポコポコと。思わずハイテンションに。

 

パノラマで。十数基が並んで壮観。

 

一歩進んでパノラマで。

 

正面には「古墳のつくりとおまつり」の解説があった。

古墳のつくりとおまつり
土を盛り上げて円形の墳丘を作り、その周囲を取り囲むように直径約5~10mほどの溝(周溝)が掘られています。
中央には地中に長方形の部屋(主体部)がつくられ、遺体を納めたあと木で蓋をし、土を盛り上げました。この部屋の中には、身に着けていた首飾りやブレスレットなどの装身具のほか、弓や矢といった武器が納められました。人骨は出土していませんが、首飾りや刀の取っ手の向きから、頭を南東方向に向けていたと考えられます。
南東方向の溝から、供え物が集中して出土してます。供え物は溝の底ではなく、ある程度埋まった様子を伺わせる状態で出土するので、古墳が作られてから一定期間をおいて供えられているとみられます。現在行われる一周忌のような風習があったのでしょうか。
平成29年10月 おいらせ町教育委員会

 

上記の背面側が天神山遺跡になる。右がT1号墳、左がT2号墳。

 

T3号墳の前に説明板が。

天神山遺跡
先に見つかった阿光坊遺跡の南側に隣接した地域である天神山遺跡にも当然古墳があるだろうと、昭和63年(1988)の調査当初から推測されていました。
このことを確かめるため、平成11年(1999)から発掘調査が行われ、その結果、現在までに39基の古墳が見つかっています。
最大50㎝程の高まりが観察されるものもありますが、ほとんどの物は地表から見分けられません。しかし地下には周溝・主体部・遺物が良好な状態で保存されているのです。
なお、平成23年(2011)に行われた電気探査で、新たに18基の古墳が眠っている可能性が指摘されており、さらに未発見の古墳が多数あるものと思われます。
平成29年10月 おいらせ町教育委員会

 

電気探査結果の地図。20基以上が地下に眠ったまま。

 

最初に見たポコポコはピンクの部分、阿光坊古墳群の阿光坊遺跡。

 

天神山遺跡の古墳には、はじめにTがついている。T1号墳。 

 

T2号墳。 

 

T5号墳は「跡」 

 

T3号墳、T5号墳についての解説。

天神山3号墳・5号墳
この地域は平成16・17年に発掘調査された。
天神山3~6号墳の4基が見つかり、全体が調査された3号墳と5号墳を強調表示した。
天神山3号墳は、周溝の内側の直径が約5mの円墳であり、中央には長方形の穴が掘られていた。出土遺物には勾玉5点、切子玉1点、管玉1点、ガラス玉76点、小玉1点、刀子(ナイフ)1点、釧(腕輪)1点が出土した。
天神山5号墳は周溝の内側の直径が約7mの円墳であり、中央には長方形で深さ0.5mの穴が掘られていた。
蕨手刀が周溝の中から出土している。
平成24年8月 おいらせ町教育委員会

 

 T1号墳の脇から北東方向。右がT2号墳で、正面奥にA(阿光坊遺跡)1号墳~10数号墳がある。

 

 グーグルアースでも、くっきりわかる。左下がT1号墳。

 

園路をまたいで再び阿光坊遺跡エリアに。 奥(北東)に向かってゆるく下っている。

A1号墳。

 

左からA2号墳、右がA3号墳。

 

林に近いほうにA4号墳。

 

 

右にA6号墳、左の解説板の奥がA7号墳、その右にA8号墳。

 

中央がA8号墳、右がA9号墳。A9号墳の後ろにA14号墳が重なってしまった。

 

左がA11号墳、右がA12号墳。

 

一番奥(北東側)にA13号墳。

奥に説明板が立っているので行ってみた。

 

そこにも阿光坊古墳群の解説があった。

国史跡 阿光坊古墳群
昭和62年(1987)阿光坊遺跡で農作業中に勾玉が見つかったことにより、古墳があるのではとの期待が高まり、翌年から発掘調査が行われた。
調査で見つかった末期古墳と呼ばれる墳墓は100基を超え多く、出土遺物も豊富であることあら平成19年(2007)7月26日国史跡に指定された。
指定面積は112,738㎡、東京ドーム2.5個分である。
史跡は、ほぼ中央に位置する小谷で大きく南北にわけられ、南の阿光坊・天神山遺跡には7・8世紀の古墳が、北側の十三森(2)遺跡には9世紀代のものが造られている。
出土遺物には土師器・須恵器とよばれる器と刀や弓矢などの武器、アクセサリー類などがあり、未発掘の古墳の多くが今なお地下に保存されている。
これらの古墳には、奥入瀬川左岸(北側)の丘陵上で暮らしていた人々のリーダー達が眠っているとみられ、およそ300年の間、周辺集落の神聖な場所であり続けたと推測される。
平成24年8月 おいらせ町教育委員会

 

その位置から古墳群を遠望する。

 

その場の足元には、人工的な盛り土の列が。

 

説明板で、古墳が造られた時期に存在した「古代人の踏み分け道」の跡と知った。

道路状遺構
東西200mの範囲で古代人の踏み分け道が見つかっている。古墳群への葬送やお参りにつかったものでしょう。古墳群周辺には、同時期に存在した集落跡が点在していて、それぞれへつながっているとおもわれます。
この沢沿いのほか、尾根上にも見つかっていて、複数の通路があった様子が伺えます。
10世紀前半に降下した火山灰を踏みつけて人々が歩いた様子がみられるので、往来があったことは確実で、その頃まで古墳が作られた可能性があります。平成29年10月 おいらせ町教育委員会

 

先へ続く園路に沿って進むと切株だらけのフィールドの向こうに、きれいな円墳が一基見えた。

 

園路は墳丘の脇に続いていた。阿光坊遺跡のものより少し大きく、周溝や周堤もはっきりしている。周溝は内径で10m・外径で13m

 

十三森(2)遺跡のJ10号墳。

 

解説板も。

J10号墳は9世紀末の、つまり平安時代になって100年経てからの”古墳”だった。

十三森(2)遺跡
周辺には、高さが0.2から1m、直径は6から10mほどの古墳が60基みられます。発掘調査が行われたのは3基だけで、多くが築造当時に近い姿を現在に伝えています。
J10 号墳は数少ない発掘が行われたもので、溝の内側が10m、外側が13mの円墳で、南東側には橋のように掘り残された通路があります。出土遺物には9世紀末に史跡五所川原須恵器窯跡で焼かれた長頸瓶(ちょうけいへい)があり、築造時期を探る手掛かりとなりました。そのほか耳皿や「十」と墨書のある土師器坏、砥石などがあります。
最も古い7世紀前半の古墳から、新しいJ10号墳の9世紀末まで、ほぼ3世紀にわたって造られたことがわかりました。
平成29年10月 おいらせ町教育委員会

 

南東側から。

 

「橋のように残された通路」がある。

前方後円墳の形の発生過程に関して、弥生時代の周溝墓の上記のような”陸橋”がお祭りの場となり、そこが”前方部”として大きくなっていった、という有力な説がある。

黎明期と終焉期で墳形が似ている(?)ことが興味深かった。

 

墳丘の上がらせていただいて説明板方向を。

 

目を凝らすと、ポコポコと円墳が見えているような…

説明板には60基とあった。