穴ヶ葉山古墳で「葉っぱ」を堪能した後は、山国川を東に渡って大分県へ。
川から500mほどにある、相原山首(あいはらやまくび)遺跡を訪ねました。
遺跡は、風の丘葬祭場の敷地内に古墳公園として整備されています。
風の丘葬祭場は煉瓦壁の荘厳な建物。
地面に斜めに刺さっているような部分が斎場です。
左にエントランス。
古城のような存在感ですが、威圧感はなかったです。
遺跡へは斎場脇の道を進みます。
金属板のマップ。現在は右上の赤い丸。左に古墳や墳丘墓が並んでいます。
その先は緩い起伏の緑の原。右に墳丘が見えています。
左を見ると、葬祭場の施設が続きます。奥の壁によって、遺跡公園と葬祭場の待合室から見える部分とを一部仕切っていました。
葬祭場の設計者は槙文彦(1928~)
代官山ヒルサイドテラス、青山スパイラル、幕張メッセ、朱鷺メッセ、古代出雲歴史博物館など、国内・海外で多く手がけた建築家で、1979~1989年には東大で教鞭もとられています。(Wikiediaより)
遺跡の説明板がありました。1993年に発見されています。
古墳時代中期から終末期、律令時代の火葬墓へと変遷する様子が見られる貴重な遺跡です。
県指定史跡 相原山首遺跡
相原山首遺跡は、丘陵の突端につくられた墳墓群で、1993年、火葬場建て替えに伴う発掘調査で発見されました。この地方で最大権力を持っていた豪族たちの累代墓と考えられています。
確認された遺構は古墳8基、方形周溝墓1基、火葬墓17基、土壙墓7基に及び、4世紀~近世に渡って連綿と形成された一大墓地群です。古墳時代は位の高い人たちの遺体を古墳に埋葬する形でしたが、仏教伝来に伴い火葬の風習が伝わると、火葬し骨を骨壺に入れて埋葬するようになりました。
4~5世紀ころの方形周溝墓(9号墳)にはじまり、5世紀の中津市内最大級の円墳(1号墳)、7~8世紀の古墳時代末期の方墳(2~8号墳)、そして8世紀後半以降は火葬墓(1号~17号)や土壙墓(1~7号)へと変遷をたどることができます。
古墳でありながら、石室を持たずに骨壺を納めた珍しい墓(3号墳、1号火葬墓)も発見されました。方墳が火葬墓への変遷を伴いながら営まれた例は非常に稀少です。
当遺跡の被葬者は、中津市相原にある古代寺院相原廃寺を建立したと考えられています。中津地方における仏教需要の様相を解明するうえで重要な遺跡であることが評価され、2010年3月、大分県指定史跡となりました。
また、永添にある国指定史跡長者屋敷官衙遺跡は、古代の下毛郡役所の遺跡です。相原山首遺跡の火葬墓は、その下毛郡の役人の墓である可能性もあります。
遺跡は調査終了後、土盛りによって保護され、その上に内部構造がわかる形で再現しています。
2010年3月 中津市教育委員会
マップ部分。墳丘のほかに、土壙墓(青)、火葬墓(赤)が混在。
まずは古墳時代中期(5世紀)の円墳、1号墳へ。
可愛らしい造り出し。
そこから墳頂へ。
墳頂からの眺め。方墳が横一列に並んでいます。
こちらが2号墳。本来の遺跡を土盛りによって保護した上に再現されたものです。
天井部分は無くなっています。お風呂にちょうどよい大きさ?
こちらは9号墳。
墳丘の対角線に土壙墓を持つ方形周溝墓で、4~5世紀と古墳群中最古のものだそう。
9号墳と接するように3号墳。
3号墳(1号火葬墓)は9世紀後半の方墳で、この墳墓の存在によって、横穴式石室をもつ方墳から、火葬骨壺のみを納めた方墳へと移り変わったことがわかるそうです。
そして、その後は墳丘は築かれなくなります。
その墳頂の火葬墓。
こちらは4号墳。手前に排水溝が伸びています。
隣の5号墳。隅が丸っこい方墳。
右から8号墳、6号墳、7号墳。
左から7号墳、6号墳、8号墳。
2~8号墳の解説。
方墳(2~8号墳)
墳丘の周囲に方形に溝をめぐらすもので、7世紀から9世紀前半にかけて造られました。遺骸を安置する主体部は3号墳以外はすべて横穴式石室で、河原石を床に敷き詰め、大きな石で一段目の壁を造っていました。古墳の形は丸みをおびたものや角張ったものがあり、最大の4号墳の墳丘は一辺が10mあります。古墳の入り口からは細長い排水溝がのびています。
全体の解説板。
相原山首遺跡は、古墳時代から近世まで続く墓地群です。古墳から火葬墓へ、墳丘を持つものから持たないものへと墓制の変換をたどれる貴重な遺跡です。発掘調査の結果、古墳8基、方形周溝墓1基、火葬墓17基、土壙墓7基が確認されました。方形周溝墓の9号墳にはじまり、5世紀の中頃には円墳(1号墳)が造られています。7世紀から8世紀にかけては横穴式石室を持つ方墳(2号墳、4号墳~8号墳)が、8世紀後半以降は火葬墓(1~17号)や土壙墓(1~7号)が造られました。発掘時、古墳の墳丘はなく、石室などの主体部は露出した状態でした。調査終了後は土盛りによって保護し、その上に遺構を再現しました。横穴式石室を持つ方墳は、石室の下半部のみを復元してありますが、もとの墳丘は2~3mの高さがあったと思われます。
方墳の前あたり見る、風の丘葬祭場。
回り込んでいくと細長い塀。その向こうが待合室から眺められるエリアになるので、ここで引き返しました。
振り返っての墳丘。現在は墓地ではないですが、死者を悼むという行為がこの地でつながっています。
建物にも魅せられました。荘厳ですが軽やかな印象。
ご近所であれば、ここで火葬されたいとも…
各務原市の瞑想の森(伊東豊雄設計)もよかったですが。
瞑想の森 各務原市営斎場 岐阜県各務原市那加扇平 - 墳丘からの眺め
弘前では弘前市斎場(前川國男設計)は行きそびれているし。
閑話休題。
風の丘葬祭場の中には、遺跡からの出土品の展示スペースもあったので見学させていただきました。
1号墳から出土した「樽形はそう」の須恵器片。
火葬墓から出土した蔵骨器などの須恵器。
素敵な遺跡と建物を同時に見学できて最高でした。
↓近くには相原廃寺が、その北には古代に豊前国府と宇佐神宮を結んでいた官道の跡もあるそうで、こちら(↓)から中津市教育委員会の詳しいパンフレットが見られます。
https://www.city-nakatsu.jp/doc/2013080200114/file_contents/5.pdf
下記のサイトで、本建物についての槙文彦氏の講演記録が読めます。
「風の丘葬斎場」槇 文彦 - 豊かな空間構成を目指して:東西アスファルト事業協同組合