墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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赤羽台第3号古墳石室 王子神社 東京都北区十条台・王子本町

川越からの帰路、以前に近くまで来ていながら未探訪だった赤羽台第3号墳石室に立ち寄った。

東武東上線の下板橋駅で下車し、徒歩23分で北区中央公園の文化センターへ。 

もとは東京第一陸軍造兵廠本部で昭和5年の築。

4年前に訪ねた場所。

 

その建物の隣に、移築石室の見学施設がある。

 

焼き物タイル系の説明板。 

赤羽台第3号古墳石室
この古墳の石室は昭和57年7月、東北新幹線工事にともなう発掘調査により発見されたものです。ほかに十数基の古墳、横穴墓群、多数の竪穴住居跡が見つかっています。
北区の歴史を知る上で貴重な資料であるため、石室をそのまま切り取って移設し、展示しているものです。
発見場所:北区赤羽台4丁目 星美学園内

 

 

石室の概要
この石室は今から約1400年前の古墳時代に作られた横穴式石室です。現在は石積みが二段しか残っていませんが当時は数段積まれ、その上に天井石をのせたものと推定されています。石材は凝灰質砂岩で海浜の自然石を用いたものです。また床面には全面に小石が、一部にカキ殻も敷かれていました。
石室の中には人骨とともにガラス玉・碧玉製の管玉・耳飾りなどの装身具と直刀・矢の先に付けられる鉄鏃などの武器類が副葬品として納められていました。
昭和61年10月 東京都北区教育委員会

 

平面図のアップ。

 

復元想定図も。

 

元の場所は、東北新幹線が赤羽を過ぎて入るトンネルの上。星美学園の敷地内。

 

格納庫のような施設。ガラスを通して覗き込んだ。 

 

表面が穴ぼこの石は、磯で見かけるタイプ。

 

一応フラッシュでも。

 

低い位置から。

 

見学施設の後ろに、重量感のある展示物が。

 

かつてこの辺りにあった東京砲兵工廠銃包製造所の設備の一部だった。

東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板
明治38年(1905)、現在の十条台一丁目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設されました。日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要となったことから、小石川地区(現後楽園周辺)より当地に移転・拡張されたものです。敷地内には銃包を製造するための煉瓦造の工場棟が多数建設されました。銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として、英国バブコック&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入され、ボイラーの煙突には、東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。この煙突は、煉瓦造の煙突の周りに鉄板を巻き、耐震性を高めたものです。
ここに展示されている部品は、ボイラーのドラム・水管の一部・鉄製の扉、および鋼製耐震煙突の銘板で、十条自衛隊の施設建替の際に解体・保存したものです。銘板には銃包製造所開設年にあたる「明治三十八年九月竣工」の年代が入っており、これらは銃包製造所の歴史を伝えるとともに、日本の近代産業遺産としても貴重な資料です。
平成27年3月 東京都北区教育委員会 

 

煙突の銘板部分に東京芝浦製作所の文字が。

東芝の源流で、Wikipediaによれば、からくり人形や和時計を開発していた創業者・田中久重(1799~1881)が東京・銀座に工場(諸器械製造所)を興し、弟子であり養子の田中大吉(後の2代目久重:1846~1905)が東京・芝浦に移転させたそうだ。

 

後ろにはボイラーや水管の一部が。

 

寝かせて置かれているのは扉だった。

 

ここから最寄りの王子駅に向かう途中に王子神社があった。

 

川越ではできなかった参拝を。

 

新緑の境内。

 

御朱印の列はあった。

 

王子駅へ抜ける道沿いには樹齢600年といわれるイチョウがある。