小浜崎古墳群から1.5㎞ほど南には長島町歴史民俗資料館があります。
国道から少し斜面を上がった先に建物が。(この背面に駐車場あり)
充実の展示物でした。
古墳の宝庫・長島、の解説です。
古墳の宝庫・長島
長島の古墳は5世紀中頃から7世紀頃のものといわれ、土盛りのかわりに石を積んだ積石塚の高塚古墳が多い。石室は竪穴式石室と横穴式石室があり、死者とともに埋葬された副葬品は金環、銀環、鏡、勾玉、小玉、鉄剣、鉄鏃、土器など貴重なものが多い。さらに白金古墳のように副葬品の豊富な古墳もあり、埋葬された人の権力の大きさを物語っている。
また、指江古墳群や明神古墳群は、数十から百数十に及ぶ積石塚古墳群であり、全国でもめずらしい貴重なものである。
早くから畿内とのつながりを持ち、八代平野に拠点があった肥君(ひのきみ)一族が、今の鹿児島県に勢力を持っていた隼人に対峙した最前線がここ長島であったとのこと。
対隼人の最前線 古墳時代の南九州
弥生時代各地に現れた支配者はしだいにいくつかの支配者をまとめ、強い支配者となり、死後大きな古墳を造るようになった。この時代を古墳時代といい4世紀から7世紀頃である。鹿児島県では南九州独自の地下式の古墳のほか、高塚古墳が大隅地方と長島・脇本(阿久根市)に分布している。長島・脇本の古墳は肥君(ひのきみ)一族(肥後)の影響を受けているといわれ、このことから長島・脇本は畿内の勢力の隼人に対する最前線の位置にあったと考えられている。
今しがた見てきた温之浦古墳群や鬼塚古墳、白金古墳からの出土品。
鏃や鉄刀は明神古墳群から(奥の曲がった鉄刀は鬼塚2号墳)
戦国時代の品々も。
昭和の機関銃の実物も。
展示室内には、原寸大で再現(移築?)された民家の部屋も。
手のぬくもりが残るような品々も。
資料館の前の斜面。
風車の左手前に開口した石室がありましたが、参照元のないレプリカとのことでした。
資料館の1㎞南、指江港の南、指江川の河口部左岸に指江古墳群がありますが、時間の都合でまたの機会としました。
海岸の平らな石を積み上げた約140基の群集墳とのこと(6世紀後半)、
指江古墳群見学ではなく、7㎞南の海沿いカフェでの昼食タイムを選んでしまいました。
今回は妻同行でしたので、昼食時間の確保は必定。
料理は美味しく、眺めも最高でした。(自分は水)