墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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丸山塚古墳(再訪) 山梨県甲府市下曽根町

前回のつづき。

山梨県立考古博物館までは甲府駅から路線バスで30分かかるが、新宿から高速バスを使うと高速を降りてすぐのバス停から徒歩数分。

 

降りるバス停は「中道」

バスで来た道を少し戻ると、博物館と古墳群がある「甲斐風土記の丘」への入口が。

 

右へ入ると目の前に大きな円墳。

 

国史跡に指定されている丸山塚古墳。

国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳
昭和5年2月28日指定

丸山塚古墳
丸山塚古墳は5世紀初めに造られた、山梨県では最も大きな円墳です。明治40年に墳頂で石室が見つかり、鏡・武器・装身具などの副葬品が発見されました。石室は竪穴式石室でほぼ南北に向いており、割石を持ち送りに積み重ねて造られました。また、石室の壁には朱彩の円文も見つかっています。墳丘は二段築成で、埴輪が立てられていました。銚子塚古墳より少し後に造られ、これに続く権力者の墓と考えられています。
規模 墳丘の直径72m、高さ11m、墳頂径9m、竪穴式石室の長さ5.55m、幅1.05m、高さ0.85m
副葬品 四神四獣鏡・鉄斧・鉄剣・石釧(腕輪)など(東京大学に収蔵)
出土品 埴輪・鉇(やりがんな)(山梨県立考古博物館に収蔵)
平成19年3月31日 文化庁 山梨県教育委員会

 

直径72m、高さ11mは、なかなかの大きさ。整備が行き届いているので墳丘の形がよくわかる。

 

登り口へ回っていくと、右手に銚子塚古墳の前方部も見えてきた。

 

周溝の外側から見た丸山塚古墳。

 

丸山塚古墳の墳頂。

 

竪穴式石室の位置が置き石で示されていた。

 

その説明板。

竪穴式石室(丸山塚古墳)
この石室は、埋葬された豪族の遺体を納めた部屋で、木製の棺の周囲に、板状、柱状の石を積み上げて造られていると思われる。
明治40年、開墾によって蓋石が開かれ、鏡1、鉄斧2、鎌1、石釧1などが発見されたが、棺と遺体は残っていない。石室は、長さ5.5m、幅は平均0.95m、高さ0.85mの規模で、床には赤色顔料が塗られている。
昭和59年の調査で石室両側中央に3~4cmの赤色円文が約30ほど発見された。出土品は東京大学所蔵。

 

丸山古墳墳頂と、その先の銚子塚古墳。

 

墳頂には太い木も。

 

周溝の向こうに小さな円墳も見える。

 

ズームで。

 

階段で下へ。

 

降りて見上げた丸山塚古墳。

 

周囲も含めた古墳群の説明板は、今年立てられたばかりのものだった。

甲府盆地の南東に位置する曽根丘陵には、古代の遺跡が数多く発見されています。
なかでも曽根丘陵の一部である甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園のある一帯は、弥生時代から古墳時代にかけて東海地域から富士山西麓を経由して人や文化が活発に行き交う、交通の重要な拠点であったことから、有力な権力者の墳墓が集中して造られました。
今から約1800年前の弥生時代後期(3世紀頃)に、上の平遺跡で方向周溝墓の造営がはじまり、古墳時代前期(4世紀)までに120基あまりが作られました。
古墳時代前期(4世紀)には、大丸山古墳や銚子塚古墳などの前方後円墳や、丸山塚古墳といった大規模な円墳が出現します。古墳の形や大きさ、中国製の鏡などの豪華な副葬品には、大和政権との深い関係性が現れています。これらは重要な古墳であり、国の史跡に指定されています。
古墳時代中期(5世紀)になると、墳墓や急速に小規模になりますが、かんかん塚(茶塚)古墳に副葬された馬具や甲冑、岩清水遺跡・東山南遺跡の円形周溝墓から出土した須恵器などは大陸からきた渡来人の影響を受けた当時の最先端の道具でした。
古墳時代後期(6世紀)以降の古墳には、考古博物館構内古墳や稲荷塚古墳など横穴式石室をもつ古墳が造られました。稲荷塚古墳から出土した銅椀は仏教との関連が想定でき、寺院が造られる以前にも仏教文化が甲府盆地に伝わったおとを示しています。
このように常に最新の文化が伝えられていたことは、この地域一帯が甲府盆地の政治・文化の中心地であったことを雄弁に物語っています。
令和元年5月 文化庁 山梨県教育委員会

つづく。