墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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久保泉丸山遺跡・後編 佐賀県佐賀市金立町

前回のつづきの久保泉丸山遺跡。

高速道建設で移築された古墳と支石墓ですが、群のまとまりとして再現されていて見応え充分。

 

解説も詳細(前回)で、仮想でない現物をたっぷり味わえる屋外博物館でした。

 

3号墳を南側から。

 

個別の解説板。

3号墳
円墳・舟形石棺(古墳時代中期)
3号墳は円墳で、その頂部に舟形石棺を埋めてあります。周溝は直径約16.5m、墳丘の直径は14m・高さ2.6mで、斜面には約5200個の葺石を設置しています。舟形石棺は阿蘇火山による凝灰岩製で、内部は全面に赤色顔料を塗布し、3体の人骨と鉄剣・刀子などが入れてありました。舟形石棺は筑後地方あたりから運んできたと考えられます。なおこの石棺は、出土した石棺と材質・大きさともに全く同一の複製品で、内部にはタイムカプセルとしていろいろな記念品が入れられています。


墳頂から埋葬施設に降りられる仕様ですが、樹木が育っていて断念。

 

家形をした石棺蓋が見えていました。

 

4号墳は横穴式石室。

 

奥壁に向かって。側壁の石を並べ直すのも大変だったと思いますがモザイク模様のような美しさ。

 

奥壁を背にして。

 

4号墳の解説。4号墳の下からは30基(!)の支石墓が検出されたとのこと。

4号墳
円墳・横穴式石室(古墳時代中期)
4号墳は円墳で、遺体を収める部屋は横穴式石室です。周溝は直径約13.6m、墳丘は直径約11.4m・高さ約3.1mです。
横穴式石室は奥行2.9m、幅2.1mの玄室と、長さ約1mの短い羨道からなります。
発掘当初は玄室の天井石と、壁石の上部の石は失われていました。遺物は墳丘の盛土の中から須恵器と土師器が一括して出土しています。それらの遺物から、4号墳の築造時期は5世紀後半~末頃と考えられます。なお、4号墳の下から約30基の支石墓が検出されています。

 

石棺だけ残る9号墳。右後ろが4号墳、左後ろが3号墳。

 

4号墳の隣の5号墳も横穴式。左後ろに9号墳。

 

5号墳の石室内部。

 

側壁下部に大きな石。

 

奥壁を背にして。

 

5号墳の北西隣の2号墳。

 

2号墳の石室内部。

 

奥壁に向かって右側に石障。石枕、撮りそびれました。

 

2号墳の解説。

2号墳
円墳・横穴式石室(古墳時代中期)
2号墳は2段の円墳で、遺体を収める部屋は横穴式です。周溝は直径14m、墳丘の直径は12.6m・高さ2.3mで、斜面には約4500個の葺石を設置しています。横穴式石室は平面が方形で、奥行・幅ともに約2mです。この石室は、5世紀中頃までに造られたと考えられる全国でも古い時期のものでs。石室内には石障を設け、その屍床の入口側に「石枕」を置いています。
石室内からは、4個の琴柱形石製品をはじめとちえ多数の遺物が出土しています。

 

2号墳の隣の1号墳。


1号墳の石室は竪穴式です。

 

その解説。

1号墳
円墳・竪穴式石室(古墳時代中期)
1号墳は2段の円墳で、遺体を収める部屋は竪穴式石室です。周溝は直径17m、墳丘は直径14.4m・高さ2.4mで、斜面には約2800個の葺石を設置しています。
竪穴式石室は長さ1.8m、幅0.7m、高さ0.8mで、内部には全面赤色顔料を塗布しています。石室内からは鉄剣と刀子が出土しています。葺石を注意深く観察すると、石の並びが縦に通る部分が何箇所もあります。これは当時の一人の施工範囲を示しています。1号墳の築造時期は5世紀前半唐中頃と考えられます。

天井石の下に見える赤色の壁。

 

1号墳の南隣に6号墳


6号墳も竪穴式石室。

 

ここも、ちょうどハシゴの位置に樹木があったので、カメラだけ差しこんで。

 

少し離れた入口近くに10号墳。

10号墳
10号墳は久保泉丸山遺跡の丘陵東側の一段低い所に所在する円墳です。墳丘径6m、墳丘高0.7mの大きさせ、墳丘全面が塊石で覆われていいます。内部主体は竪穴系横口式石室で、西側に入口があります。石室の規模は長さ2.05m、幅0.86mです。出土遺物は鉄鏃1・刀子2・土師器などです。現状は、墳丘の盛土と、石室の天井石を省略して復原したものです。

 

さまざまなタイプの石室が、そして支石墓まで見られる貴重な”博物館”でした。

佐賀平野の雄大な眺めも最高でした。