墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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久保泉丸山遺跡・前編 佐賀県佐賀市金立町

前回の銚子塚古墳から1.8㎞北東、前々回の西隈古墳の1.7㎞東に、久保泉丸山遺跡があります。

 

佐賀市つくし斎場のすぐ手前に駐車場。

 

駐車場から50mほど戻った左手が入口。

 

入口の解説。高速道建設に伴って発見、丸ごと移設された、縄文時代晩期から弥生時代を経た古墳時代にかけての遺跡です。

この久保泉丸山遺跡は、佐賀市久保泉町川久保にあったものを、約500m西のこの地へ、そっくり移したもので、昭和52年3月、九州横断高速自動車道建設に伴う埋蔵文化財の発掘調査で発見されました。
本遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期(紀元前3~5世紀)の支石墓群をはじめ、紀元5~6世紀の古墳群が小さな台地にまとまって存在し、日本における稲作の起源や、古代統一国家の形成過程の研究上、学術的に極めて価値の高いものです。
発見以来、この「遺跡」は現状で保存することが最も望ましく、関係者の間で協議と検討がなされてきましたが、結局、遺跡全体をそっくり移すということになりました。
日本では初めての試みである遺跡の移設は、日本道路公団の協力を得て、昭和56・57年度の2ヵ年にわたって実施され、昭和58年3月に完成しました。

 

移設時に、当初の姿を推測した形で復原。

復原された久保泉丸山遺跡は、支石墓16基、甕棺墓1基、箱式石棺墓2基、古墳8基、中世墓3基が、自由に見学できるようになっています。現状は、これらの「墓」が造られた当初の姿を推測して復原したものです。それぞれの「墓」の特徴や、残存状況を参考に、学術的価値をできるだけ損なわないように工夫してあります。
また、山側の小高い部分は「広場」になっており、久保泉丸山遺跡を通して原始・古代の歴史をわかりやすく表現した説明板や支石墓の模型が設けてあります。実物の「墓」と説明板を併せて利用して、歴史のロマンを感じて下されば幸いです。
なお、見学については自由ですが、遺跡内の諸施設や樹木などはみんなの財産ですので大切に取り扱ってください。

 

復原された円墳が居並ぶ姿は圧巻です。


こちらは支石墓。

 

亀の群れのような。



支石墓の断面模型。

 

支石墓の解説。

支石墓の内部
支石墓には遺体を葬るための施設(内部主体)として素掘りの穴や、扁平な石を組み合わせて作った箱式石棺などがあります。また、甕や壺を利用する場合もあります。佐賀県では素掘りの穴が、長崎県では箱式石棺が多く用いられています。
久保泉丸山遺跡では、内部主体が箱式石棺のものが1基、壺棺が6基で、残りの大部分は素掘りの穴でした。壺棺はその大きさからみて、乳幼児を葬ったものです。

 

ズームアウトして支石墓部分を含む「稲作の開始」の説明。

朝鮮半島および九州での分布図もあって興味深いです。

日本の支石墓
支石墓が日本に伝わってきたのは縄文時代の終わり頃で、弥生時代の中期まで造られました。この形式の墓は、佐賀・福岡・長崎・熊本県といった北部九州で主に営まれましたが、なかでも、玄界灘と有明海沿岸に集中しています。日本の支石墓や、大陸文化の門戸にあたる地域に最も多くあるといえます。

 

パネル展示全体の情報量はかなりのボリューム。解説も含めて、まさに野外博物館です。


画像だけですが。

 

主要な遺物をプロットした年表まで。


背面側には、まださらに、久保泉丸山古墳に関しての説明も。

遺跡の概要
久保泉丸山遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期(紀元前3~5世紀)の墓と、5~6世紀の古墳群からなっています。
縄文時代晩期~弥生時代前期の墓は、支石墓・甕棺墓・石棺墓などで約130基あります。このうち、支石墓が最も多く、100基以上検出されています。支石墓に供えられた縄文時代晩期の土器には、籾の圧痕がついているものがあり、すでにこの時期に米作りが行われていることがわかりました。
古墳は11基あります。注目されるのは、死者を葬る内部施設が、竪穴式石室・横穴式石室・竪穴系横口式石室。舟形石棺などと、バラエティに富んでいることです。
このように、久保泉丸山遺跡は、支石墓や稲作の起源の研究のうえで、また、古墳時代の多様な埋葬施設と副葬品をもつことなど、学術的に価値の高い遺跡です。

縄文時代晩期~弥生時代には、約130基にものぼる支石墓・甕棺墓・石棺墓などがつくられています。なかでも、支石墓は100基以上と圧倒的多数を占めます。この狭い台地上に、支石墓がこれほど多数密集している例は、全国的にみて例がありません。
これらの墓は、佐賀平野の弥生時代文化の原点となったものです。

 

味のあるイラスト。

古墳時代の5世紀頃になると、各地で群集墳が形成されるようになります。久保泉丸山遺跡の古墳群も、5世紀の初め頃から6世紀代まで、次々に古墳が造られています。この古墳群の特徴は、内部施設の種類が豊富であることですが、日本でも初期に属する2号墳の横穴式石室や、阿蘇の凝灰岩で作られた3号墳の舟形石棺など、内容的にも重要な資料が多く見られます。

 

移設復原の解説も。

 

個別の墳丘については次回で。