墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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八幡山古墳 群馬県前橋市朝倉町

前回と同様に朝倉・広瀬古墳群に属する八幡山古墳は、国指定史跡で公園として整備されていた。

 

長軸を北北西ー南南東に向けている。奥の北側が後方部。

 

石板に刻まれた解説。古墳群中で唯一の前方後方墳。

史跡 八幡山古墳
かつては、現在住宅地となっている広瀬側右岸の台地上に百数十基にもおよぶ大小の古墳があり、一大古墳群を形成していた。本古墳は、この古墳群を代表するものの一つで、古墳群中唯一の前方後方墳である。
墳丘の規模は現状で全長130m、前方部幅59m、同高さ8m、後方部幅72m、同高さ12mで前方後方墳としての形もよくどとめている。また、墳丘周囲には幅25~30mの堀がめぐっていたことが確認されている。
埋葬主体部については、未調査のため明らかでないが、墳丘頂上部から埋葬した竪穴系のものであったと推定される。なお、本古墳の東南には、県内最古の古墳と考えられる天神山古墳がある。

 

全長130mは、前方後方墳としては全国第4位の大きさ(東日本で最大)になる。

「朝倉・広瀬古墳群(2015年・前橋市教育委員会作成)」には築造年代は4世紀初頭とあった。

https://sitereports.nabunken.go.jp/16308

同資料には前方後方墳についての切り込んだ説明もあった。

・前方後方墳は、弥生時代末期の東海地方の方形周溝墓から変化して生まれた。

・3世紀後半の倭国大乱の後にヤマト王権に参入した東海地方西部から広まり、4世紀には前方後円墳に先行して九州から東北地方南部まで伝わったが、特に東日本では前方後方墳が主要な地域に出現した。その理由は前方後方墳を造営した氏族がヤマト王権の列島経営のために各地に進出したからと考えられる。

・八幡山古墳は、弥生時代には人の手が入らなかった「ケノ」と呼ばれていたこの地域一帯の肥沃な平野を開拓し、国づくりをなしとげた首長の墓と考えられる。

 

石板の説明では天神山古墳を県内最古としているが、上記資料では八幡山古墳(4世紀初頭)の方が天神山古墳(4世紀前半)より前に置いていた。

 

脛ぐらいまで伸びた草原の、踏み跡を辿って墳丘へ。

 

樹木があると墳形が捉えにくくなり眺望も得られなくなるが、炎天下の墳行ではありがたい。

 

後方部の角裾にあたる場所から高さ12mを一気に登る。

 

後方部墳頂に到着。

 

後方部の先端は、曲線でなく直線。

 

前方部への方向。

 

アゲハ蝶が休息中だった。

 

墳頂からの眺めは樹木があるのでいまひとつ。後方部から北東、前橋駅の方向。

 

前方部への小道を降りる。比高差は4m。 

木々が南に傾いているのは「からっ風」の影響?

 

鞍部から後方部を振り返ったところ。

 

ロープで囲われた一画は、調査が始まるのだろうか。

 

前方部の北西側には野球場が迫っていた。

 

前方部の先端へ。

 

そこから振り返った後方部。

 

縦位置でも。

 

前方部先端を降りると、膝丈ぐらいの草むらだった。

 

振り返っての前方部の端。

 

野球場側から見た前方部。

 

もう一度、鞍部を上がる。

 

野球場と反対側の、くびれ部を。

 

くびれ部から前方部。

 

そのまま草原の小道を進んで、振り返っての後方部。

 

同じ位置から前方部。

 

パノラマで。左が後方部、右が前方部。

 

一回りして始めの場所へ。正面が後方部で右後ろが前方部だった。