七ツ塚古墳群の次は、いよいよ馬越長火塚(まごしながひづか)古墳へ。
東側からアプローチ。

遠目にも見えていた説明板。

国指定史跡 馬越長火塚古墳 3基 平成28年3月1日指定
本古墳群は、馬越長火塚古墳、大塚南古墳、口明塚南古墳の3基からなる首長墓群です。
馬越長火塚古墳は全長70mの前方後円墳で、墳丘は平坦な下段と盛り土で築かれた上段からなる2段築成です。墳丘は全体が葺石で覆われており、6世紀後葉に限れば東海地方最大規模の古墳です。
後円部の南側には奥行17.5m以上の横穴式石室が開口しています。石室は前庭、羨道、前後2室に分かれた玄室で構成された複室構造で、それぞれが立柱と呼ばれる石材で分けられています。玄室は平面形が胴張り形で、天井石の縦断面形は連続する弧状を呈し、奥壁には1枚石が使用されるなど、典型的な三河型横穴式石室の特徴を持っています。
玄室からは、朝鮮半島に由来する棘葉形杏葉を含む豪華な金銅装馬具や、トンボ玉など各種の玉類、前庭からは墓前の祭祀に使用された大量の須恵器が出土しており、これらは一括して国の重要文化財に指定されています。 出土品によって、本古墳は6世紀末葉に築造されたと判明しました。
大塚南古墳は直径19m、口明塚南古墳は直径23mの円墳です。農地造成で姿を変えていますが、墳丘の中央には南に開口する横穴式石室があります(現在は埋められています)。いずれの古墳も、発掘調査によって須恵器や金銅装馬具が出土しており、大塚南古墳は7世紀初頭、口明塚南古墳は7世紀前葉に築造されたことが判明しました。
本古墳群は、東海地方の古墳時代後期から終末期にかけて、3世代にわたる首長墓系譜の変遷を追うことができる事例として重要です。豊橋市教育委員会
馬越長火塚古墳群を示す図。

見事な馬具が出土したのですね。

説明板の後ろが後円部でした。ぴょこんと高さがあります。

裾にあった解説。

後円部
後円部は、中央がドーム形に著しく高くなり、その周囲はなだらかな斜面になっています。横から見た姿はまるで麦わら帽子をふせたかのようです。
実は、なだらかな斜面の部分は葺石でおおわれ、3段に造られています。
墳頂から振り返って。

後円部から前方部方向を。

前方部へと下ります。

前方部上にあった解説。

前方部
前方部は低く、細長いかたちをしています。葺石でおおわれていますが、前方部の上面にも葺石が施されているのが特徴的です。
前方部の中央は、戦時中に陸軍の土取りによって大きな穴が掘られ、西側は柿畑に改変されています。改変された柿畑部分を発掘調査したところ、前方部の下半部がよく残っていることがわかりました。
”改変された”前方部。

いったん墳丘南側に降りると、その先に続く前方部の様子がわかりました。

そこから墳丘裾を後円部の方へ回っていくと、石室開口部が!

開口部と後円部先端側裾と。

事前予習をしておらず、説明板を読む前に周り始めたので、この石室を”見つけた”ときは声が出るほど感動しました。

入口前の解説。

横穴式石室
後円部には、南に向かって開口した石室があります。石室の内部は、3対の柱状の石材によって羨道・前室・後室の3つの部屋に分かれています。
床面にはこぶし大の石が敷いてありましたが、現在は保護のため砂でおおっています。
羨道から覗き込むと、奥が深い!

前室まで入って、後室を。

奥壁は見事な一枚石。

左右の側壁にはさまざまな大きさの石が積まれていますが、室内側の面は平らです。


フラッシュで。天井石も大きいです。

奥壁を背にして。


奥壁を背に左右側壁を。


前室の天井石。

前室から羨道を。

外に出て前方部へ戻っていると、また地面に解説。

造り出しではなかったです。

南側くびれ部
南側の後円部と前方部との境界には、墳丘から張り出した高まりがあります。発掘調査の結果、古墳にともなうものではなく、後世の盛り土と判明しました。
盛り土の下からは、葺石が見つかっています。また戦時中に石室から運び出された副葬品の馬具が出土しました。
その先から振り返って。左が前方部、右奥に後円部。

さらに進んだ先に、前方部右隅がありました。


前方部南西コーナー
ここは前方部の南西側にあたります。柿畑として利用されたほか、道路によって削平を受けていますが、前方部コーナーの葺石が見つかりました。
葺石は、コーナーに沿って曲がるように、列をなして敷きならべてありました。
逆側、前方部左隅から。左奥へ後円部。

北側を後円部に向かって進むと、くびれ部に説明板。

このあたりの墳丘はよく残っているとのこと。

北側くびれ部
古墳の北側は柿畑や道路によって改変されていますが、後円部と前方部の境界付近は墳丘がよく残っています。
ここにも葺石があり、南側にくらべて置かれている範囲が狭く、古墳の「裏側」である印象を受けます。
そのあたりから前方部側。

後円部側。

後円部裾から振り返って。

こちらのサイト↓で、このあたりでは古墳は火塚と呼ばれ、石室が長くて大きいこの古墳は長火塚と呼ばれた、ということを知りました。
2025年10月中旬訪問