前回のつづき。
台地上の広場では、近所の幼稚園の生徒(かなりの人数)が帰りの準備中でたいそう賑やかだった。
広場にあった気になる標柱。
説明板によれば「公園周辺に築造されていた」白山古墳と加瀬台7号墳のサイズを原寸大で示す工夫だった。
最初に見たときには、ここの場所に古墳があったのかと勘違いしてしまった。
加瀬台の歴史が書かれた説明板もあった。
縄文期、ここは海に面した島だった。
古墳時代、加瀬山と付近には11基の古墳があった。
夢見ヶ崎の名は、太田道灌が見た不吉な夢(築城を諦めた)に由来するそうだ。
ちなみに、兜が飛んでいった先の兜塚(古墳)へもこのあと訪ねた。
広場には展望台もあった。
が、周囲の樹木が伸びて展望はあまりなかった。紅葉は(擬似)古墳跡の周囲に沿って植えられている。
よくみるとモミジに、花が咲いた後のタネが付いていた。
こちらは広場にあった緑のトンネル。
内部の様子。
外側には、きれいな花壇が。
奥の広場に実際の墳丘があった。広場の四角いタイルも古墳サイズの表現。
近づくと上ることができる円墳があった。
詳しい説明板も。
夢見ヶ崎動物公園周辺の古墳群
夢見ヶ崎の細長い台地には、現在わかっているだけでも、11基の古墳が築造されていました。
そのなかでも白山古墳は、全長87mの大きな前方後円墳で、武蔵国でも最古級の、4世紀後半に築造されたものです。特に、後円部の木炭槨から発見された三角縁神獣鏡や、初期ヤマト政権から、この古墳の被葬者に分与されたものと考えられる歴史的にも貴重な鏡です。
白山古墳の西隣には、7世紀代に築造された第六天古墳が位置していました。こちらは、墳丘径16mの大形円墳で、横穴式石室からは、勾玉・金銅製鈴等の副葬品とともに、11体もの遺骸が発見されました。
両古墳とも、その後、削られてしまいましたが、この公園内には、加瀬山第3号墳や獣面鏡・鉄斧等を出土した第4号墳をはじめとする高塚古墳が、いくつか現存しております。
貴重な文化財の保護に、皆様のご協力をお願いします。
なお、夢見ヶ崎と呼ばれる地名のおこりは、太田道灌がここに陣をしいて築城を計画したが、ある夜、自分の兜を鷲に持ち去られるという兆しのよくない夢を見たので築城をあきらめたという故事からきていると伝えられています。
昭和62年10月 川崎市教育委員会
現存する古墳の位置を示すマップがあり、大変助かった。
現在地は加瀬台9号墳。上がっていくと祠があった。
太田道灌を祀る八幡宮には御供え物があった。
東側、樹木のすきまから新川崎のマンションが。
広場の方向。
南側に下りたところから。右の柵の向こうは崖になっている。
広場の端にあった慰霊塔。
その後ろに向う道があって…
加瀬台2号墳に着いた。
2号墳の墳頂から来た道を振り返って。
さらに奥にも斜面が続いていた。
降りて見上げる2号墳。
台地下に続く急階段もあった。
階段は下りずに台地の先端部へ。右の柵から崖になっているが先ほどのマップによればこのあたりに加瀬台1号墳があったと思われる。
台地の先端からの眺め。縄文期は目の前に海が広がっていたはず。
その時代からこの場所に暮している人々がいた。
南側の丘は三ツ池公園、鶴見川を越えた先で直線距離2.3km。
奥は横浜ランドマークタワー、同11km程。
来た道を戻って、3号墳へと向った。
つづく。