9月30日、南大塚の山王塚古墳の現地説明会の10時の会に参加した。
昨年3月の前回に続き2度目の山王塚古墳。
墳形は全国でも数例しかない「上円下方墳」
下方部一辺は57mあり、上円下方墳では全国最大の規模を誇る。
今回は徒歩で迷わずに時間通りに到着したが、前回以上に大勢の参加者(軽く百人超)で賑っていた。静かなブームです。
前回の説明会にて、主体部(埋葬施設)の存在が「レーダー探査の影」として匂わされていたが、今回の調査はその埋葬施設に近い部分となっていた(上円部中心下の色の濃い部分)~当日配布された資料「市指定史跡 山王塚古墳 発掘調査見学会資料 平成29年9月30日 川越市教育委員会」より。
ちなみに左の丸い部分は円墳の跡で、そこにかかる四角いグレーが山王塚古墳の周溝になる。
山王塚古墳は7世紀前半築造の円墳を壊して、半世紀後の7世紀後半に築造されたと考えられている。
配布資料の表紙。
ちなみに前回の説明会資料の表紙の図では下方部の縁が平らだが、上図の新しい資料では陸繋部以外の下方部の縁に盛土が示されている。
正面から奥への微妙な膨らみが、下方部の縁の土盛。左側に上円部。
こちらも下方部。左(南)に上円部。右手の下方部縁が膨らんでいる。
西側から見た上円部。 積まれた土嚢のすぐ左側が今回の調査区。
上円部の調査区は、深く大きく掘られていた。
係りの方が立つ下の土の断面左右両側に、棒が刺さった列がお碗のように示されているが、そこから中央側には築造時とは異なる土が入っており、それは埋葬施設が露天掘りのように大規模に掘り返されたことを意味している。
係りの方の足元のレベルから12~13世紀鎌倉時代の宋銭や青磁片が出土しているので、鎌倉時代の盗掘のようだ。
底には緑泥片岩の石が姿を表している。
土壁の奥に玄室があると想定されるが、この盗掘ぶりからすると残念ながら遺物が残っている可能性は低いのではと思われた。
もちろん解説の方の話では調査してみないとわからないとなるが、今のところ主体部を調査する予定はないそうだ。この発掘部分も埋め戻される。
ズームで。
横からズームで。美しい色。
重なっている下の石はオリジナルの位置にあり、この場所は横穴式石室で奥の玄室の手前の羨道(前室?)にあたる可能性があるとのこと。
斜めになっている石は部屋を構成する壁または天井などにあったものと想定されるようだ。
右側面に棒が列状に刺さっているところから手前は「撹乱」があった範囲。
石室石材の大部分が見当たらないのは、盗掘時に持ち去られ別の用途に転用されたと考えられるそうだ。
鎌倉時代の人はなんてことを思うが、日本のあちこちでは昭和になってから土取りや開発目的で削平された墳丘の例の方が多いのでは。
墳頂側から。
敷地の一画は出土物の展示もあった。
今回の区域からは緑泥片岩だけでなく、河原石や安山岩の破片が出ており、複数の種類の石を組み合わせていたことが伺われる。
安山岩は表面を平らに削った跡が残っていた。羨道の壁面を構成していたように感じられた。
宋銭や青磁も展示。
この鳥居あたりに入口があったのか・・・
パノラマで。
希少な上円下方墳は、関東(武蔵国)で他に2例、府中熊野神社古墳(一辺32m)と天文台構内古墳(一辺30m)がある。
山王塚古墳(一辺57m)も含めどれも7世紀後半の築造であって7世紀末に建設された東山道武蔵路推定ルートに沿って分布しており、これらの被葬者は東山道武蔵路の開削に関わっていた可能性が考えられるとのことだった(配布資料より)
今回の説明会では、古墳を愛する方々と会って話をすることができて楽しい思いをすることができました。
あんけん様、間を取り持っていただいた上に貴重な資料まで頂戴し誠にありがとうございました。
ぺん様、kohunsuki様、今後ともどうぞよろしくお願いします。ペン様のサイト拝見しました。特に神奈川県の古墳が数多く紹介されていて驚きました。当日も周辺の古墳を回られていたのですね。
http://pennihonshi.blog.fc2.com/
リンクも貼らせていただきました。
※追記 ぺん様からのコメントでkohunsuki様のサイトがわかりました。こちらも沢山の古墳探訪記事、今後じっくり見させていただきます。リンクも貼らせていただきます。
https://blogs.yahoo.co.jp/ken_kohun
また川越市教育委員会及び関係者のみなさま、貴重な機会を設けていただき感謝いたします。当方の認識の誤りや聞き違いもあると思いますので、もし当ブログを目にする機会がありましたら何なりと御指摘下されば幸いです。どうぞよろしくお願いします。