墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

山王塚古墳・現地説明会 埼玉県川越市大塚1-21

2016年3月12日、川越市にある山王塚古墳で現地説明会があると聞き訪ねた。

西武池袋線南大塚駅で下車し、歩くと20~25分かかる。

余裕をみて着いたが、駅でトイレに入って出たときに方向感覚を間違い、北東方向に向かうはずが南西方向に歩いてしまった。上の写真は南大塚駅の南口。

スマホも持っていたが、はじめはアプリの方の誤差だと思い込んでしまった。気づいたら15分ぐらい経過していて早足で駅に戻り、北口でタクシーに乗った。

山王塚古墳は運転手さんもご存知なかったが、近くのニトリ川越店を目印に行って、説明開始5分後ぐらい(14:05)に到着した。

 

百人ほどの見学者が集まって熱気が漂っていた。

 

山王塚古墳は全国でも珍しい上円下方墳で、その中でも最大級の大きさを誇る。

築造時期は7世紀後半の古墳時代終末期にあたる。

現地では測量図付きの、詳しくわかりやすいパンフレットが配られていた。

 

以下は資料の「山王塚古墳の造られた時代」より。

山王塚古墳が造られた7~8世紀は大化改新(645年)、壬申の乱(672年)を経て、日本が律令国家の建設に向け大きく揺れ動いた時代です。

この地域でも、中央の地方経営政策の一環として武蔵国への渡来人の移住がはじまり、霊亀2年(716)には高麗郡が建郡されます。

また、7世紀後半には山王塚古墳の西方を南北に貫いて古代の官道である東山道武蔵路が建設されます。

古墳の出現以来権力のシンボルとして造られ続けてきた前方後円墳は、この時代すでに築造されなくなり、各地に初期寺院が造られるようになります。この近辺では、7世紀後半に創建された勝呂廃寺(すぐろはいじ:坂戸市)が有名です。

このように、旧来の体制が崩れ、新たな制度・価値観が創出される激動の時代に山王塚古墳は造られたのです。

  

こちらは現地に立っていた説明板。平成6年なので20年を経ている。

市指定史跡 山王塚

入間川を北西に臨む右側の南大塚台地上に築造された上円下方墳であろう。南大塚古墳群としてわかっているのは18基を数えるがそのうちで当古墳は最大のもので、入間川左岸の的場古墳群の牛塚(前方後円墳)古墳と対峙する位置にあり、その勢力圏を知るうえでも貴重な古墳である。

その規模は方形部の一部は約63mで、その高さは約1mである。円形部の径は約47mを有し、全高4.5mで方形部の外側には一部ではあるが幅約5mの周溝が現存しており、おそらく全体に巡っていたと考えられる。墳頂部は盗掘の痕跡が認められる。東日本最大の上円下方墳であろう。

平成6年3月 川越市教育委員会

 

今回(平成27年度)の調査は平成24年度に続く2回目で、墳丘規模は上円部径約35m、下方部一辺約57mと改めて確認された。上の説明板より若干小さくなっている。

構築方法については、上円部はローム土を何層にも突き固める”版築”工法、下方部は外周部をローム土で盛土し上円部との間を暗褐色土で埋めるように造られていた。墳丘盛土には緑泥方岩の破片が混入していて石室加工の際の破片と推定されるそうだ。

下方部の四周を巡る周溝は緩やかで浅く、古墳の南正面にあたる山王社参道辺りでは地山を掘り残して造られた陸橋(ブリッジ)も確認されている。

 

こちらが7号トレンチで、中央の白い棒が立っているところが陸橋部。

 

下記のブルーシートの前が7号トレンチ。

 

こちらは南東コーナーの8号トレンチ。 周溝が90度向きを変えるところで、浅くゆるやかに掘られていた。

 

東辺の中央あたりから。右の路が下方部の一辺にあたる。

ブルーシートの先が上記の8号トレンチ。

 

その先の4号トレンチ。上円部にかかるところから周溝外側まで、縦に割るように掘られている。墳丘の断面で構築方法がわかる一番の「見せ場」

 

浅く緩やかな周溝。

 

上円部にかかるところ。2枚ある表示は上には「上円部の版築」、下には「古墳築造時の地表面」と書かれている。

 

土の質を交互に変えて突き固め、それを幾つも重ねてミルフィーユのようになっていることがわかる。

 

上円部側からの4号トレンチ。

 

さらに墳丘を上がったところから。

 

上円部の墳頂から北東方向。墳頂からの眺望はなかった。

 

南方向。山王塚の祠の裏。

 

いただいた資料には「上円下方墳」についての説明もあった。

3世紀半ばから7世紀までの古墳時代は、3世紀半ばから4世紀を前期、5世紀を中期、6世紀を後期、7世紀を終末期と大きく4区分されるが、上円下方墳はその終末期、畿内に造られる陵墓が巨大な前方後円墳から規模を小さくして円墳・方墳・八角墳になっていく流れの中で築造された。

7世紀初頭に造られた石舞台古墳(一辺51m)も上円下方墳の可能性があるが盛土を失ったためにオリジナルの墳形はわからなくなっている。

7世紀後半の関東では武蔵府中熊野神社古墳(一辺32m)、天文台構内古墳(一辺30m)があるが、山王塚古墳はこの時期の最大の上円下方墳と考えられるとのこと。

7世紀末から8世紀初めになると、奈良市の石のカラト古墳(一辺14m)、沼津市の清水柳北1号墳(一辺13m)、白河市の野地久保古墳(一辺16m)など、各地で小型の上円下方墳が造られている(とは言っても数は少ないが)

 

資料にはそれらをまとめたわかりやすい表が載っていた。縦軸が年代、横軸が地域で、規模が相対比較できるようになっている。黒塗りは葺石のあるもの。

これを見ると山王塚古墳はもっと有名になってもよいのではと思う。

 

上記の武蔵府中熊野神社古墳では全長9mの、そして天文台構内古墳は全長7mの切石切組・複室構造の長大な横穴式石室を持つ。

ということはこの山王塚古墳にも!

 

実際に少し陥没している部分の地下をレーダー探査した際に16mぐらいの”影”がみつかっていて、夏にもその埋葬主体部を調査する予定があるとのこと。

16mとすると、関東の石舞台とも言われる行田市八幡山古墳 (16.7m)のような見事な石室が眠っていることになる。

今年の大注目になるのでは。

 

下から見上げる墳頂、山王塚。

 

説明会終了後の静かな山王塚。

 

木立の中の墳丘。

 

パノラマで。

 

土手のようなところが下方部の端になる。

 

会場では、周辺の古墳から発掘された副葬品や埴輪の展示もあった。

きれいに形が残っている大刀。

 

大刀の鞘の部品。

 

この円筒埴輪は他の古墳から抜いて棺として再利用されたもののよう。風化が少なく作られたばかりのようだった。

 

山王塚南側の道。左から迫り出すところが陸橋のあった参道の延長上になる。

 

周辺を少し歩いてみた。入間川までは北西に2kmほどあるが、地形は古墳群が列になるところから北西側はすぐに低くなっていた。

 

下図もいただいた資料にあったもの。

南大塚古墳群は、現在27基(消滅含む)の円墳を中心とした群集墳が確認され、5世紀後半から7世紀代にかけて造られたことがわかっている。

山王塚古墳のあとは古墳は造られなくなり、時代が転換する。

 

川越市教育委員会及び関係者のみなさま、貴重な機会を設けていただき誠にありがとうございました。なお、当方の認識の誤りや聞き違いもあると思いますので、もし当ブログを目にする機会がありましたら何なりと御指摘下されば幸いです。どうぞよろしくお願いします。