前回のつづき。
ららん藤岡のそばで車を借りて最初に向かったのは山名古墳群。この後に上野三碑を巡ったが、そのひとつ山上碑から南東1㎞ほどのところに山名古墳群が展開していた。
県道200号沿いに駐車場がある。説明板完備。
高崎市指定史跡 山名古墳群
山名古墳群は、古墳時代後期~終末期(6~7世紀)に形成された群集墳(有力者の集団墓地)である。烏川との合流点に近い鏑川北岸にあり、背後には岩野谷(いわのや)丘陵(観音山)が望まれる。現在、指定地一帯には19基の古墳(前方後円墳1、帆立貝形古墳1、円墳17)が保存されており、これだけ状態の良い事例は県内でも数少ない。
古墳群は中央の低地を挟んで南北に広がるが、6世紀前半に15号墳(帆立貝形)を含む南群から形成が始まった。6世紀末には北群の築造が始まり、6世紀末には両群の接する西端に山名伊勢塚古墳(墳丘長65m)が成立。7世紀には北群に主体が移り終焉を迎える。
なかでも山名伊勢塚古墳は烏川以西の片岡地域唯一の前方後円墳で、この地の経済成長実現した首長の墓であると考えられる。二段築成の墳丘に葺石を施し、円筒埴輪や形象埴輪を並べる。後円部には南に開く横穴式石室があり、地元に産する凝灰岩の切石を積み上げている。盗掘されていたが金銅製馬具や小札甲が出土した。
なお、伊勢塚古墳の次世代の首長墳は、背後の丘陵にある山上古墳(7世紀)であるが、その傍らにある山上碑(国特別史跡.681年建立)には、彼らが佐野三家(ヤマト政権が設置した地域支配拠点)の管理者一族であった由来が記されている)
このことから山名古墳群は、岩野谷丘陵および眼下の平野を拓いて佐野三家の開始に関わり、後に文化的に飛躍する山名地域の礎を築いた集団の墓所と性格づけられる。地域史を解明する上でたいへん重要な文化財である。
そこから西に見上げた山名伊勢塚古墳の後円部。
きれいに刈り込まれた後円部墳頂。
後円部墳頂から東側を見ると、山名古墳群が見渡せる。
その後円部から前方部方向(南西)を。 なかなか雄大です。
山名伊勢塚古墳は全長65m。
くびれ部のあたり。
左手(南)200m弱に鏑川が流れている。
前方部から後円部を。
県道の逆サイドのくびれ部。
このあたりが前方部端か。このあたりはちょっと変形しているようだった。
前方部右裾にあるバス停。停留所名は古墳に関連してはいなかった。
バスは2時間に一本ぐらいだが、ちょうど反対方向のバスが通っていった。
墳丘の北側の道から。
その道の先で。
手前が後円部で右奥へ前方部が延びている。