3回前のつづき。
外濠にかかる橋(下図の左上)をわたって公園にはいった。下の案内図は後で公園を出たときに撮ったもの。広さはグーグルマップでみると1.7haほど。サッカー場2面くらい。
土浦城が築かれた時期は定かではありませんが、現在知られている土浦城は江戸時代に整備されたものです。江戸時代前期には松平氏、西尾氏、朽木氏等、中期以降には土屋氏が城主となりました。土浦城を拠点とする土浦藩は、土屋氏のときに藩領が9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次ぐ領地の広さをほこりました。
土浦城は「亀城」とも呼ばれています。明治時代以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館等として利用されてきました。昭和に入り本丸と二の丸の一部を公園として整備し、亀城公園の名で現在も親しまれています。昭和27(1952)年には櫓門とともに茨城県指定史跡第一号となりました。
櫓門は明暦2(1656)年に改築されたと伝えられ、本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方で唯一現存するものです。階上に太鼓を置き、時刻を知らせていたことから「太鼓櫓」とも呼ばれていました。
土塁上の見事な松。
土塁上の別の箇所にはシイの巨樹もあった。説明板あり。
県指定文化財 亀城のシイ
天然記念物のこのシイ(椎)の樹種名は、スダジイ〈別名イタジイ・ナガジイ〉である。
スダジイは福島県と新潟県以南の暖地に自生する、ブナ科の常緑高木で、種子は食用になる。
このシイの胸高周は7m、樹高は16m、枝張り21m、樹齢は約500年と推定されている。県下のシイの中でも有数の巨樹である。平成8(1996)年3月 土浦市教育委員会
広場を横切って「本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方で唯一現存する」櫓門、太鼓櫓(1656年築)をくぐる。
太鼓櫓前の石橋から内濠。正面奥は旧前川門(高麗門)
門をくぐると本丸跡広場。西の角、市立博物館のそばにある西櫓。
説明板があった。地元の方々の尽力で平成に再建された。
土浦城 西櫓(にしやぐら)
由来
本建造物は、17世紀初頭元和6・7年頃城主西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。
土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在していた。
土浦城内の建造物は、明治以降、本丸館を始め多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西櫓を残すのみとなった。
そして、この西櫓も老朽化と昭和24年のキテイ台風により、小破し、昭和25年に復元を前提として解体された。
その後復元を見ず今日に至り土塁上には礎石のみが残され、僅かに往時をしのばせるに過ぎなかったものを、市民の浄財をもとに復元したものである。
平成4年7月 土浦市教育委員会
こちらは東側土塁の上に再建された東櫓。こちらは内部見学ができる。市立博物館との共通券で大人105円。
以下は展示パネルの「ごあいさつ」より。
江戸時代、土浦城は土浦藩主の政務の場として、また居城として利用されていました。廃藩置県後の明治31年(1898)に、元藩主であった土屋氏より土浦町に寄贈され、昭和に入ってからは亀城公園として整備、昭和27年(1952)には櫓門とともに茨城県指定史跡第1号となりました。亀城公園は都市公園として、また史跡公園として、市民のいこいの広場となり現在にいたっています。
「土浦城東櫓」は譜代大名西尾氏が土浦藩主であったときに建てられたと伝えられ、西櫓とともに東西の土塁の上に存在していました。明治時代の火災で本丸館とともに失われましたが、今回の復元で再びその姿を現すことになりました。
新しい東櫓は江戸時代の建築技術を継承しながら、現代工法も取り入れた建物となっています。この復元を機会に、土浦城址がますます親しまれ、また文化財として大切に保護され、将来にわたり守り伝えられていくことを念願いたします。平成10年(1998)10月 土浦市
スリッパに履き替えて中へ。階段を上がった2階からは土塁の上に立つからか結構眺めがよかった。
北西側、本丸跡広場では小さな子たちがサッカーの練習。
北東側の眺め。
上の写真のズーム。昭和の教会か、と思ったら新設の結婚式場だった。
南東側、土浦駅の方向。かつては目の前まで霞ヶ浦だったはず。
1階の展示物。継手・仕口の組物。時間をかけたが組めなかった。
1階の天井には野太い丸太が使われていた。
北西側の土塁。
鮮やかなオレンジの花が揺れていた。
つづく。