前回のつづき。
亀城公園の東櫓を見学したあとは旧水戸街道(中城通り・中城商店街)沿いを散歩した。
公園からバス通りに出ると向かいに古い木造家屋があった。「城藤茶店」の暖簾があり、メニュー看板もあった。「はちみつ醤油のお餅ワッフル 450円」というのが気になった。
その隣には昔ながらの雰囲気のパン屋さん。
道をはさんで3階建ての長屋風建築。
長屋風建築の逆サイドでは、ドイツ料理「エルベ」の魅力的なエントランスがあった。
エルベの前の小道を進むと、左手側さらに狭い枝道から鳥居が見えたので、そちらの方へ。
鳥居を抜けて振り返ったところ。鳥居と山門の間に見える細道を来た。
左奥は琴平神社、右は中城山不動院だった。
敷地の横には「喫茶 蔵」があった。
蔵はこちらの「土浦まちかど蔵 野村」に続いていた。
道(旧水戸街道)を挟んだ向かいには「土浦まちかど蔵 大徳」
大徳の1階部分は観光案内所兼おみやげ屋さん。説明板もあった。
土浦まちかど蔵・大徳
大徳は、水戸街道(通称中城通り)ぞいに天明5(1785)年に創業された呉服の老舗です。
大徳の蔵造りには、天保13(1842)に建築の元蔵をはじめ、江戸時代末期に建築された見世蔵(一部明治期に増築)、袖蔵及び向蔵の4棟があります。
大徳の町家造りは、店前に約90cm(3尺)前後の下屋庇(げやひさし)を設け、前面には格子戸を入れ、約90cm下がって揚げ戸をたてる造りとなっています。この下家庇の部分は、半戸外的な空間が保たれ、これは江戸時代の町家造りの特徴です。
見どころとして、まず、見世蔵と袖蔵の土蔵造りの重厚な外観があります。また見世蔵一階の梁組み、二階和室十畳間のザクロの床柱と杉材の天井板、八畳間の床の間天井竿縁のねじれ加工や二階縁側の近江八景の木彫の欄間などがあります。
この伝統的商家建築物四棟は、(株)大徳 尾形家からの寄贈により土浦市が都市景観事業として整備したものです。平成12年3月 土浦市
スリッパに履き替えて2階の見学もできた。タイミングよく、ボランティアの方の説明を聞けた。
2階の展示スペースの奥にはお座敷があった。お座敷から敷地内建物の瓦屋根の眺めが見事だった。
床の間のあるお座敷が2部屋、間に1部屋があった。奥の床柱はざくろの木。
こちらの床の間の柱材はエンジュ。
縁側廊下の板材は松だそう。端から継ぎ目のない直線を松材でという贅沢な使い方。
上記の背面は板材のカーブをうまく活かした階段になっていた(立入禁止)
廊下のガラス面の上の鴨居板には8ヶ所に「近江八景」が透かしのように彫られていた(上部は彫った部分を白く残した絵)
こちらの天井には一畳大の杉の1枚板(が10枚)
1階に降りて、今度は蔵を見学。
博物館のようになっていた。下記は2階部分。
巨大なレジスターがあった。
1の位、10の位、100の位それぞれにボタンがある。これってIBM製?
蔵には、尾形家(大徳)についての説明板もあった。
長編ですが、経営史としても興味深い物語だったので全文転載します。
尾形家(大徳)について
尾形家(大徳)は、大国屋徳兵衛として1785年に中城に店を開いて以来、現在の株式会社大徳の社長の尾形省三氏で8代を数え、200年以上の歴史を有する老舗です。
大徳の名称は、大国屋徳兵衛の名前に由来するものです。
尾形家初代徳兵衛は、寛保元年(1741)下総国香取郡宮下村の尾形数馬の4男として生まれました。生家は香取神宮の神官と伝えられています。宝暦13年(1763)23歳の時に土浦町へ出て、当時土浦でしょうゆ醸造業を営んでいた大国屋勘兵衛店へ奉公しました。
大国屋勘兵衛家(国分家)は伊勢国射和の出身で、元禄期から享保期にかけて土浦でしょうゆ醸造業を開始したとされ、霞ヶ浦・利根川水運を利用して江戸へしょうゆを出荷し、土浦町での経営を拡大していきました。勘兵衛家醸造のしょうゆは江戸城西丸御用となり、勘兵衛家に触発されて土浦町では多くのしょうゆ醸造業者が現れ、しょうゆは大消費地江戸に向けての土浦の特産物となっていきました。
勘兵衛家に奉公してのれんわけを許され、大国屋を名乗ることを許された家はいくつかありますが、この内土浦町で大きな商家に成長していったのが絞油業を営んだ大久保武兵衛家であり、もうひとつがこの尾形徳兵衛家でした。
初代徳兵衛は、勘兵衛家に奉公してから15年目の安永7年(1778)、本店のある伊勢に行き、商才を認められて支配人を勤めました。天明5年(1785)45歳の時、退いて土浦へ戻り、中城町に店を構えたのが大国屋徳兵衛家の始まりです。創業当初の使用人は3人で、本店のしょうゆ醸造業と競合しないように古着や穀物、肥料などを取り扱い始めました。
土浦町は、城下町であり、また水戸街道の宿場、霞ヶ浦水運の港町として、交通の要衝でした。近隣の農村部から集まった物資を売却する商家が軒を連ねて、にぎわいをみせ、常陸国南部におけるもっとも大きなマチであったといっても過言ではありません。
尾形家は天明5年というまさに天明の飢饉の時代に開業して、当初の取り扱い品目は穀物が売り上げの6割を占め、続いて古着が3割と近隣の農村で生産された穀物と江戸から買い入れた古着の小売が経営の中心でした。
寛政期に入ると穀物の割合は減少し、変わって古着の売り上げが全体の7割、干鰯、油粕といった肥料が2割を占めるようになりました。尾形家ではこの頃から古着だけでなく呉服も扱うようになり、衣類の小売が経営の中心になっていきました。
その後、明治45年に「合名会社大徳呉服店」を興こし、昭和23年に「株式会社大徳」に改め、昭和49年に店舗を駅前通りに移し現在に至っています。
大徳の建物は、側面も迫力があった。
大徳正面の旧水戸街道(中城通り)
鉤形に曲っているところが城下町の雰囲気を残す。
大徳の西の並びにある矢口酒店は全面修復中だった。
側面部分。このギザギザに竹を通し土を塗って壁にする、と大徳のボランティアの方に伺った。
2階部分の屋根の梁。全面修復といっても旧材を多用しているそうだ。
さらに西の並びにあるそばや「吾妻庵層本店」。まるで「房総のむら」のようだ。
いい感じのモジャハウス。
中城通りに面した山口薬局。2階部分が昔の風情。
「ちょうちん」の幟があるということは需要があるということだろう。
小学校へ続く道の途中に「模型のマルジョウ」という気になる店舗があった。
シャッターが少し下りていたが営業中。「プラモデル15%オフ(一部除く)」の張り紙があった。外から覗いた店内は結構広々としていた。
旧水戸街道に戻る。改めて巨大な箱のような建物に気づく。
旧水戸信用金庫土浦支店だった。店舗統合により離れた場所に移転している。この建物はどうなってしまうのだろう。
旧水戸街道をバス通りの方へ引き返す。通りの手前の時計屋さん。2階のレンガ壁風に対して1階の柱が細いような・・・
時計屋さんの斜向かいの木造建物。
バス通り側に回ると天丼屋さんの看板があった。この日は定休日。
家の角には「桜橋」の親柱。昭和10年(1935)まではバス通りは川(川口川)で、中城通りが交差する場所が桜橋となっていた。
左の小さい方は「土浦町道路元標」 、かつての町の基点。
バス通りを渡った場所から。
かつては左右に川が流れ、正面に桜橋が架かってた。
つづく。