墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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土浦ニューウェイ MALL 505(川口ショッピングセンター モール505)茨城県土浦市

前回のつづき。

中城通り(歴史の小径)から200m足らずのところに、急に「首都高」のような風景があった。

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もとは川だった場所が埋め立てられ、さらに高架道がある。

土浦ニューウェイという名前があり、つくば科学万博に合わせ昭和60年(1985)に造られている。

土浦駅東口から桜川までの町中全長3kmを一気に抜けて、つくば研究学園都市へ向かう。

以下はWikipediaより。

その後、学園大橋付近を打ち上げ会場とする土浦全国花火競技大会開催日には、会場と土浦駅東口を結ぶシャトルバスの運行経路に利用されている。この時は、一般車両は通行止めとなる。また、冬季(主に1月・2月)には路面凍結がたびたび発生し、全面通行止となることがある。

2車線(片側1車線)の道路で交差点や信号はなく、大型貨物車・大型乗用車(路線バスを除く)・二輪車・自転車・軽車両・歩行者の通行禁止規制のほか、最高速度は40 - 50km/hに制限されている。

 

階段があったので上ってみた。

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高架道レベルにあるバス停に出た。首都高にバス停があるような違和感。

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逆サイド。ビルの合間を縫って進む。

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正面にはちょっと煤けたビルがあった。

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映画館だった。上階にはスポーツジムがあった。

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映画館と高架を挟んだ反対側を歩道橋の上から。

建物のデザインが面白い。今は、ちょっともったいない使われ方。

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「MALL505」は、長さ505mのショッピングモール。。

下記のブログでは「日本最長」と、そしてかつては土浦の大人気スポットだったと書かれている。

 

しかも3階建て。亀城公園の近くの商店も3階建て長屋だったが、こちらは各階に通路がつく。

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だが、今あちこちに出来ている巨大モールとは比較にならない。一昨年2013年に開業したイオンモール幕張新都心は長さ1.5km。

 

3層目からは高架道が近い。閉まっているところが多い印象だった。

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土曜日の午後4時過ぎだったが、路上にはほとんと人がいなかった。

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調べていたら、映画「龍三と七人の子分たち」のロケ地となったことを知り、映画を見たくなった。

 

元が川だったので、その記憶を残すようなつくりものがある。

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モールの東端から。高架道はそのまま常磐線を越える。下をくぐる道もある。

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そのあたりにあったモダンな家。

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人は線路の下をくぐる。

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器用に頭を下げて自転車に乗ったまま通る人がいた。

 

ガード下を抜け、小さな階段を上がると小公園。

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大きな鉄の塊があった。

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説明板もあった。

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ここにも物語があった。

川口川閘門の鉄扉と揚水ポンプ

江戸時代に城下町として栄えた土浦は、桜川が霞ヶ浦に注ぎ込む河口の低地につくられた町で、町の中には中小の河川や数多くの水路や濠がありました。この説明板のすぐ脇の道路も、城や商家の物資輸送に盛んに利用されていた川口川の名残で、JR常磐線の線路の下からモール505を抜けて亀城公園の濠とつながっていました。川と霞ヶ浦は土浦に水運による繁栄をもたらしましたが、大雨が降ると洪水になり易い欠点もあり、そのために土浦では江戸時代から、桜川の堤防決壊や霞ヶ浦の逆流などで、度々大きな水害にあってきました。

そこで土浦の町を水害から守るために、まず明治28(1895)年に常磐線を当時の霞ヶ浦湖岸に敷設し、線路に土手の役割を持たせました。さらに明治39(1906)年に線路下を流れる川口川の河口部に、逆流防止のための機械開閉式の閘門をつくりました。そして昭和13(1938)年には、市内に流れ込んだ水を霞ヶ浦へ排水する揚水ポンプも設置されたことから、これ以降土浦では大きな水害が減少しました。

その後、生活や輸送の変化に伴い次第に川や水路は埋め立てられ、閘門はその使命を終えます。昭和60(1985)年以降、土浦高架道建設に伴い閘門の跡は、土浦駅を東西につなぐトンネル状の道路へと姿を変えました。

ここにあるのは、閘門に設置されていた二枚の鉄扉のうちの一枚と、揚水ポンプの一部です。洪水と戦った水郷都市土浦の歴史を伝えています。

平成21年(2009)12月 土浦市教育委員会

 

小公園から100mほど東に向かうと、霞ヶ浦の湖面、土浦港に出た。

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左手は川口運動公園で150mほど行くと水天宮があるはずだが次の機会とした。

霞ヶ浦マラソンのスタート地点。毎年2万人以上が参加する。次回は平成28年4月17日だそうだ。自分も10数年前に1回出た。そしてブランクも10数年・・・

 

そのまま南へ向かうと土浦駅の東口に出た。

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上記の背面には高架道の出入口。巨大な市営駐車場もあった。

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東口からの土浦駅は今なお残る貨物ヤードを渡っていく。常磐線土手が湖岸堤防の役割を果たしていたころはここも湖だったはず。

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駅構内にあった案内図。左が北で、下の緑が亀城公園。

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ちなみに、右側にある桜川を5kmほど遡ると武者塚古墳のそばになる。石室内から美豆良(みずら・結った髪の毛:重文指定)が出たところ。

 

さらに桜川を、筑波山の西から回り込んで北に遡った最上流は桜川市、山桜が綺麗だった高峯地区につながる。

 

茨城県、奥が深い。