墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

城之内古墳 群馬県邑楽郡大泉町城之内

5月18日の土曜日、古墳と建物を見に太田(群馬県)近辺を訪ねた。

グーグルマップに「古墳」と入れつつ行先を考えていると、下記の「城之内古墳」が目に留まったのでまずはそこから。

 

北千住で東武伊勢崎線に乗って館林駅へ。ホームの端に留まっている小泉線に乗り換える。初めて乗る路線にワクワクする。

 

館林から太田へ向かうには特急の通る伊勢崎線より短い距離になる小泉線だが、昼間は一時間に一本しか通らない単線だった。

途中で枝分かれして2駅進んだ終点の西小泉駅で下車。

 

 駅舎は新しい。

 

スペイン語ポルトガル語?)と併記の案内図。近くにはSUBARUパナソニックの広い工場敷地。

 

駅前にはタクシー乗り場があったが待っている車は無かった。

 

名前の異なる自転車預かり所の看板が並ぶ。かつてはニーズが高かったのか。

 

グーグルマップを見ながら住宅地の中を歩く。

 

道沿いにはきれいに手入れされたバラも。

 

ギリシア建築の柱のような給水塔の横を通る。

 

古墳のある城之内公園の入口に到着。隣の中学校で催しがあって駐車場は満車。

 

入っていくと沢山の庚申塔に囲まれた墳丘が。

 

庚申塔についての説明板。昭和49年に付近から遷座したものだった。

城之内の百庚申
所在地:大泉町城之内2-2060
管理者:大泉町
この百庚申は、小泉神社西側の小泉城土塁跡一帯に江戸時代中期から明治時代にかけて造立されたものを昭和49年にこの地に遷座したもので、85基を数える。
庚申信仰は、庚申の日に人の身体に潜む三尸(さんし)という虫が、夜中に身体を抜け出して、人命を短くするよう(人の罪を)天帝に告げ口に行くという道教の教えから、夜明かしする風習が生まれたことに始まったとされる。それが宗教的儀礼である勤行会や詩歌管絃等の行事に発展し、さらに民衆信仰に定着したと言われる。
江戸時代に入り、庚申信仰は民衆生活に根付き、年貢課役の労苦や災害・病魔の苦難を免れ、現世利益をもたらすものとして盛んになった。人々は講を組織して、手作りのご馳走を持参し、夜を徹しての寄り合いをもったり、庚申の年を記念して造塔礼拝したりと、庶民の切実な願いをこめた行事であるとともに数少ない娯楽ともなっていた。
親庚申は、小泉城跡の大手門である門橋付近に元文5年(1740)に造立され、その地に現存している。
平成10年9月 大泉町教育委員会

 

墳丘に近づくと、茂みの後ろには開口部が。

 

こちらも、昭和53年に移築されたものだった。

大泉町指定史跡 城之内古墳
所在地:大泉町城之内2-2060
所有者:大泉町
指定年月日:昭和54年11月30日
この古墳は、大泉町城之内3丁目1948番地の飯田老作氏の宅地内にあったものを、昭和43年に発掘調査を行い、大泉町の歴史を解明するうえで欠くことのできないものであるところから昭和53年現地に移築した。
古墳の主体部は、片袖型の羨道をもつ横穴式石室で、玄室は北武蔵地方に多くみられる三味線の胴のような形をした胴張型という特殊な形態である。
築造時期は、太刀、耳環などの出土遺物や石室の形態などから7世紀後半(古墳時代後期)の築造と考えられる。
石室長:5.4m 玄室部長:3.6m 玄室部幅:1.2m 羨道部長:1.8m 羨道部幅0.5m
平成10年9月 大泉町教育委員会

 

柵の内側にカメラを入れて撮影。 羨道部幅は50㎝なので結構小さい。

 

 

フラッシュで。 

 

ズームで何枚か撮ったが、すべてピントが手前になってしまった。

 

墳丘の高さは2m弱か。

 

すぐ後ろにはお濠。公園は小泉城の城跡(なので城之内公園)

 

 こちらの地蔵様も移築されたもの。昭和20年4月4日の空襲で亡くなった町民および旧中島飛行機株式会社小泉製作所航空院生の冥福と祈るために建立された。

 

その近くにはしっかりした造りの英霊塔。

 

その先に本丸跡へ橋。

 

静かな水を湛えた内濠。

 

土塁に囲まれた本丸跡ではゲートボールの準備が始まっていた。

 

小泉城(冨岡城)跡の説明板。

大泉町指定史跡 小泉城跡(冨岡城跡)
所在地:大泉町城之内2-2060
管理者:大泉町
指定年月日:昭和54年11月30日
小泉城は、延徳元年(1489)冨岡主税介直光が縄張りをしたことに始まり、以後冨岡氏6代、約100年余の居城として栄え、威容を整えたものである。現在の城跡は、小田原北条氏の傘下に入ってから改築されたものと考えられる。
城の形態は平城で、本丸、二の丸、三の丸からなり、中心部は回字型をもつ囲郭式平城の典型で、県内でも有数の城跡である。
本丸の水堀と土塁、三の丸の一部の水堀と土塁がかなり良好な形をとどめている。本丸北東隅の「櫓台跡」と西南隅の「折り」と「櫓台跡」は、正面、北面、西南面を防護する横矢櫓の備えを明瞭に残していて、戦国期城郭の特徴をよく遺存している。
天正18年(1590)、小田原北条方に組していた冨岡氏は、豊臣氏の小田原攻めとともに破れ、廃城となった。
平成12年3月 大泉町教育委員会

 

大泉町ウォーキングマップも立っていた。左の橋脚は利根川沿いにある未完の路線のもので、戦時中に西小泉駅と熊谷方面を結ぶ計画により着手されたが終戦で中止となった。

面白そうだったが目的地とは逆方向だったので次の機会とした。

 

目指した場所は塚廻古墳群。徒歩43分と出たので県道沿いをタクシーを探しながら北へ進んだが、流しがある雰囲気ではなかったので歩き通すことに決めた。

 

途中にあった庚申塔

 

彩色が残っていた。

 

入道雲のようなクスノキ

 

よさげな薪窯ピザの店を通り過ぎる。

つづく。