墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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永山古墳 宮崎県児湯郡木城町大字高城

川南古墳群の見学後は永山古墳とピンが立つ場所へ向かった。

直線距離は1.5㎞ほどだが一旦台地を降りて切原川を渡り、再び舌状台地へ上がる。北側からアプローチしたら、車のすれ違いが難しい細いくねくね道だった。

 

グーグルマップの導きで、無事目的地に到着。

城山公園の駐車場の真ん中に遺構が保護されていた。

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永山古墳は木城町指定文化財。

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町指定文化財 永山古墳
指定年月日 昭和59年12月7日
この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。この城山公園駐車場整備の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実際されました。調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬設備であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧に積み上げて造られた墓室であります。県内では、西都原古墳群にある鬼ノ窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第1遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓をよばれる石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
さて、永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったといわれる、須恵器と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器と呼ばれるものもあります。他には玉類や鉄器などが見られていますが、これらのうち鉄器については、馬に乗る道具である馬具や、軍事的要素を持つ鉄鏃、直刀などがあります。これらの副葬品から、被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
また、これらの古墳は規模や形式によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力などが分かることがあります。当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。
平成18年 木城町教育委員会 

 

直径10mほどの円墳。

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石室の長さは5mほどか。

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しゃがんで、奥壁をズームで。川原石を積み上げているようだ。

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側壁を。

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奥壁側から。 

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規模の大きな古墳ではないが、これだけの石を運び上げて丁寧に積み、土を盛るのは大変な作業。 

 

古墳の先にも道は続いていて、さらに東の駐車場まで行ってみた。

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高城城は、山田新介有信という武将が、当時の九州で最大規模の合戦に二度耐えた難攻不落の名城だった。

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高城城跡(町指定文化財)
高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。地形は、舌状に細長く伸びた台地であり、見晴らしには大変優れた所に営まれた山城であります。
この城では、天正6年(1578)、天正15年(1587)の二度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと約5万の大軍でこの城を攻撃しました。しかし高城城主山田新介有信はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦と呼んでます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長率いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その二度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
城としての特徴は、現在、城山公園として利用している箇所が東側の主部と考えられる曲輪(くるわ)と考えられています。ここでは島津氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。
平成4年度には、木城町の城山公園整備事業におるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列などの遺構、土師器と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況をより理解することができます。
平成15年2月10日 木城町教育委員会 

 

北側に谷が入り込み、西側以外は比高差50mほどの崖で囲まれた地形。しかもその西側とつながる細い尾根を何か所も削って谷(空堀)をつくり、橋をかけている。

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駐車場の横にあった第一空堀跡。 

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そこには、時間があれば降りてみたい階段があった。

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登っているようにも見えますが、下っています。途中で階段が見えなくなるほどの傾斜。苔で滑ったら下まで行きそう。

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駐車場の東側、城の主要部は公園になっていました。 

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墳丘のような遊具に目を奪われる。

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 前方部から後円部?くびれ部も!

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お鼻が長いすべり台も。 

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物見櫓があった。 

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素晴らしい眺め。 小丸川上流方向。

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下流方向。 

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公園には 桜が植えられている。ここでの花見は最高では。

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櫓か降りて公園の北側の様子も。 

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