墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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士詠山 大泉寺 静岡県沼津市井出

前回の井手丸山古墳から700mほど南南東にあるのは大泉寺(だいせんじ)

 

根方街道へ出て東へ向かっていると「阿野全成墓所」のサインが目に入り、思わずUターンして立ち寄りました。


「鎌倉殿の13人」は2022年の大河ドラマ。毎回楽しみに見ていましたが、阿野全成(あのぜんじょう)は印象に残っています。特にその最期は。

 

山門から中を。テーブルと椅子があったり、開放的な雰囲気。

 

お寺の公式サイトは

大泉寺の歴史 - 大泉寺コム

 

本堂正面。

 

そこから左手の道の先に…

 

沼津市の指定史跡となっています。

伝 阿野全成・時元墓
指定昭和58年6月15日

阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡流源義朝の七男です。鎌倉幕府を聞いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常盤御前です。
平治の乱で義朝は敗死し、常盤御前は今若、乙若、牛若の三児を連れて逃れ、後に助命されました。今若は山城国の醍醐寺に預けられ出家して全成と改名しましたが、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師とも呼ばれました。
治承4年(1180)頼朝が挙兵するや、全成はひそかに寺を抜け出し、修行をよそおいながら頼朝のもとに参じました。頼朝は、その志に涙して感動したといわれます。後に駿河国阿野庄(現在の沼津市東原・今沢から植田・富士市境付近まで)を与えられて井出に居館を構えたとされ、大泉寺がその館跡であるといわれています。 
頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、 幕府軍に捕えられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。 
その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵をさしむけ、交戦十日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。 
墓は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。 
令和元年9月30日 沼津市教育委員会

 

墓石が一同に会している感じです。

 

その中心に2つの五輪塔。きれいな花が供えられていました。

 

こちらでは、お線香の命名も印象的でした。

 

こちらの住職が似顔絵(けしごむハンコ)が得意とのこと。本当に(役者さんに)良く似ていました。

 

お寺の墓地から見えていた富士の頭。

2023年5月下旬訪問

 

沼津市のサイトにも解説あります。

大泉寺(だいせんじ)(井出)/沼津市