墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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蓬莱山古墳 大分県大分市大字賀来

千代丸古墳(の入口)を見た後は、東に2.4㎞にある蓬莱山古墳を訪ねた。 

 

蓬莱山龍音寺の境内に、60m級の前方後円墳が良好な形で保全されていた。

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蓬莱山古墳
大字賀来字庄ノ原
昭和56年3月31日 県指定
庄ノ原(しょうのはる)丘陵の中央寄りにある前方後円墳です。墳丘には葺石がみられ、主軸は概ね東西方向で、全長60m、後円部直径36m、後円部高さ6m、墳丘周囲に掘られた周溝を含めると全長は約80mに達します。主体部は、この地域の伝統的な埋葬施設である箱形石棺で、後円部中央付近には主軸を東西方向に向けて設けられていました。古墳の平面形は柄鏡形で、前方部が狭く低い古式の特色を示しています。墳丘からは壺形埴輪が見つかっている一方で円筒埴輪が用いられていないことなどから、4世紀代に築かれたと考えられます。
・蓬莱山古墳の石棺
主体部の箱形石棺については、昭和49年に盗掘坑の調査が行われ、石棺は内法で長さ1.7m、幅0.45m、高さ0.55mと確認されました。長側板には緑泥片岩の一枚板が用いられており、その他には安山岩の板石が用いられていました。緑泥片岩の大きな石材が用いられていることからは、その産地である大分市東部地域と交流のあったことが窺われます。
・蓬莱山古墳の位置づけ
蓬莱山古墳は、大分川流域の首長墓としては亀甲古墳に続くもので、地域で最古の前方後円墳です。この地域では5世紀初めには全長80mの御陵古墳が造られ、その後大臣塚古墳が続き、6世紀初めの千人塚古墳まで、前方後円墳が造られ続けます。

 

南東側の道路にある説明板側からは、周溝を隔てて後円部が見える。

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上記の位置から右方向。周溝に雨水が溜まっていた。 

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後円部裾の周溝に降りてみた。右に後円部、奥が前方部。

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後円部墳頂の一歩手前。

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後円部墳頂から、先ほど見えた周溝の水たまり辺りを。

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後円部から前方部方向を。 

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上記から、少しくびれ部側の左寄りに移動して。

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前方部の墳頂。 

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そこから振り向いた後円部。後円部との高低差が大きいのは古墳時代前期の特徴。 

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前方部右裾側の周溝に降りて。右奥へ後円部。

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前方部先端側の堤には鳥居が造られていた。鳥居から参拝。

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前方部左裾から。左奥へ後円部。

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左側面からの、鞍部(くびれ部) 

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パノラマで。左後円部、右へ前方部。

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後円部の左側の周溝。 

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 広い周溝が良く残る、”立派な”前方後円墳だった。