墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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久津川車塚古墳 京都府城陽市平川車塚

前回の丸塚古墳から久津川車塚古墳までは、住宅街を挟んで130m。

 

突き当たったところに最初の説明板。

久津川車塚古墳
国指定史跡 昭和54年1月19日指定
この場所は車塚古墳の東外堀の跡である。車塚古墳は、墳丘の長さ180mの南向きの前方後円墳である。周囲には二重の堀がめぐり、外堀を含む全長は272mに達し中期の古墳では南山城最大である。三段に築かれた墳丘の平坦部や外堤には埴輪が立てられていた。今は、墳丘下段と二重の堀は埋まっている。
明治27年(1897)、後円部から長持形石棺と両端に付いた簡単な竪穴式石室が掘り出された。副葬品に武具・武器が多いので軍事に携わった人物が葬られていると思われる。石棺は大王陵の石棺に多い兵庫県加古川産の竜山石がつかわれている。時期は古墳の形や副葬品から5世紀中頃と考えられる。東方130mにある丸塚とともに国の史跡に指定されている。

平川周辺の古墳
かって七ツ塚と呼ばれた。現在20基の古墳が確認されている。低台地上の古墳は洪水で埋まっているものもある。車塚・丸塚が国指定史跡、芭蕉塚は城陽市指定史跡。

車塚古墳地形図
1989年までの発掘調査の成果を基に墳丘や堀の平面復元図を描いている。現在の地形と比較して規模の大きさを実感していただきたい。

石棺出土状態
長持形石棺はこんな状態で出土した。大正4年(1915)の写真より写した。石棺は後円部中心より南側にあった。

 

説明板の向こうは周溝エリアで、線路の向こうが墳丘です。

 

周辺の様子は、芝が原古墳公園の立体地図がわかりやすかったです(方向は北東上空から)

中央が久津川車塚、左が丸塚で、ちょうどタイルの継目に沿うようにやってきました。

JR奈良線が墳丘を通っているのがよくわかりますね。

 

グーグルアースで。墳丘の東側面をズバッと。

 

踏切付近から見る、周溝と墳丘。


コンクリ擁壁は前方部の断面でしょう。

 

回り込んだ西側は公園のように整備されつつあります。

 

そこにあった説明板。

国指定史跡 久津川車塚古墳
昭和54年1月19日指定
久津川車塚古墳は、墳丘の長さが約180mで、周濠を含めた全長は約272mあります。南山城地域では最大の前方後円墳です。
久津川車塚古墳は、大谷川により形成された扇状地のほぼ中央に築造されています。大谷川の扇状地には古くから「七ツ塚」と呼ばれる7基の古墳があり、久津川車塚古墳、梶塚古墳、芭蕉塚古墳、青塚古墳、箱塚古墳、指月塚古墳、丸塚古墳がそれにあたります。現在は、国指定史跡の久津川車塚古墳と丸塚古墳、城陽市指定史跡の芭蕉塚古墳の他に、青塚古墳の一部が現存しています。
宇治市南部から城陽市北半部にかけての丘陵上や平地には、多くの古墳が築造されており、これらの古墳を総称して久津川古墳群と呼んでいます。久津川古墳群は、広い範囲に古墳時代前期から後期にかけて築造された多くの古墳があり、京都府内最大の古墳群と言えます。
久津川古墳群は、宇治市南部の広野地域、大谷川扇状地を中心とした平川地域、城陽市の中央部にあたる富野地域の3グループに分けることができます。特に、3基の大型前方後円墳(久津川古墳群、芭蕉塚古墳、丸塚古墳)が所在する平川地域は、久津川古墳群の中心となっています。
城陽市教育委員会

 

ガイドの方によると、墳丘西側面は戦時中に削られて掩体壕(屋根無し)として使われたとのこと。

 

後円部方向を。

 

周溝が広く感じますが、昔このあたりは大きな洪水があり、全体が数メートル埋まったのだそう。


自分たちが立っていた地点は、墳丘の初段テラスの高さにあたるとのことです。墳丘全長は180mですが現在残っている部分は150m程だそう。想像力を働かすとより面白くなる古墳です。

 

現在の登り口から上がったところが2段目のテラス。奥が後円部。


前方部先端方向へ回り込んで墳頂へ上がります。

 

前方部墳頂の様子。奥が後円部。

 

前方部右裾方向。すぐ先に電車の音が聞こえました。

 

木々に覆われた墳頂ですが一部に”窓”が開いていて、西北西方向が望めました。

 

南から来た木津川が流れていく方向になります。左奥に見える平らな丘・石清水八幡宮のある男山の右(北)で宇治川・桂川と合流して淀川になり、丘の向こうを南西に下ります。

 

久津川車塚古墳で、残っている後円部の一部。

 

そこから振り返っての前方部方向。

 

そのすぐ北は、奈良線の工事に伴う土取りで、クレーターのように陥没しています。

 

最初の説明板にあった図の部分。後円部が逆V字形に大きく削られていますね。

削ったときに、”王者の石棺”とも称される長持形石棺が露出。

 

現物は京都大学総合博物館にて間近で見学できます。

 

一行は、切れ残っている後円部の左縁を進みます。

 

右を見下ろすと、クレーターの底。

 

後円部から降りて振り返って。手前の削ったところも掩体壕跡かも知れませんね。

 

その近くにあった別の説明板。

国指定史跡 久津川車塚古墳
昭和54年1月19日指定
久津川車塚古墳は南北に主軸をもつ前方後円墳で、三段に築かれた墳丘の長さは約180mあります。周囲には盾形の周濠が二重にめぐらされており、周濠を含めた全長は約272mあり、最大幅は約209mあります。
墳丘には葺石が施され、墳頂部とテラス面には埴輪列がめぐっています。また、外堤上にも二重の埴輪列がめぐっています。埴輪は、円筒埴輪の他に、朝顔形埴輪や形象埴輪(家形・蓋形・盾形など)がみつかっています。
埋葬施設については、明治27年(1894)の鉄道(現JR奈良線)建設の際に行われた後円部の土砂採取により、石室と石棺が発見されています。埋葬施設は、大形の長持形石棺の両小口に板石積みの小石室を付設したものです。石棺内や小石室内からは、銅鏡・玉類・石製品類・武器類・武具類など多くの副葬品が出土しています。
埴輪や副葬品から、5世紀前半に築造されたと考えられます。
久津川車塚古墳は、南山城地域最大規模の前方後円墳です。さらに大形の長持形石棺が用いられ、多種多様な副葬品が出土していることから、この古墳に葬られた人物は南山城地域を支配していた大首長であったと想像されます。
城陽市教育委員会

 

今後、公園として整備される方向にあるようですが、どのように”復元”されるのか楽しみですね。