向日神社から西国街道を北へ歩き、向日市文化資料館にやってきました。
正面入り口側。
ここに、元稲荷古墳の後方部竪穴式石室の天井石の一枚が展示されています(座ってはいけません)
最初の扉の右手には大きな埴輪が。
詳しい解説があります。埴輪棺として乾垣内遺跡で発見されたものですが、元は伝高畠陵に立てられていた可能性が高いとのこと。
乾垣内遺跡の盾形埴輪
・発見のいきさつ
昭和48年(1973)のこと、寺戸町乾垣内の竹やぶでたけのこの土入れ作業中に、横たわった埴輪が崖面から突然姿をあらわした。当時高校生であった岩崎誠さん(現(財)長岡京埋蔵文化財センター技師)は、この発見の知らせを受け早急に現地へ赴き、応急的に出土状況の記録を取られ、また、埴輪の保存に尽力された。
この時の岩崎さんの迅速な対応のおかげで、乾垣内遺跡は闇に葬られることなく世に知られることとなった。
・遺跡の内容
この遺跡は埴輪円筒棺を使ったお墓である。埴輪円筒棺とは、古墳の墳丘に立てら並べた埴輪を抜き取り、人体を埋葬するために棺として転用されてものをいう。
使われた埴輪は盾形埴輪2個体とヒレ付円筒埴輪の一部である。盾形埴輪は1個体分については盾面を上に向けて設置していたことが確かめられているが、他については、発見人お破壊でよくわからない。
・復元作業の成果
この埴輪は、永らく破片となって倉庫に保管されていたが、今回、発見以来はじめて復元を試みることとなった。この結果、伏見区桃山にある黄金塚2号墳(全長120mの前方後円墳)と同じタイプのものであることがわかった。両者は製作技法や盾面の文様が非常によく似ており、同じ系統の埴輪工人が各々を作ったものと見ることができる。これらが作られた時期は4世紀末葉と考えられる。
・埴輪の由来
乾垣内遺跡の埴輪は転用されたものであることから、もともと立て並べられていたはずの古墳が近隣に存在するはずである。
都出比呂志さん(大阪大学教授)は、宮内庁が管理し桓武天皇の皇后を葬ったとされる高畠陵が、もとは古墳時代の大形円墳であると考え、それを伝高畠陵古墳と呼ばせた。そして、これを乾垣内遺跡の埴輪が帰属する古墳に想定された。両者の距離は120mである、他に4世紀末葉に位置付けられそうな古墳は見当たらず、その可能性は極めて高いものと思われる。
・埴輪が語るもの
伝高畠陵古墳は、直径約70mの大形円墳で、4世紀末葉に築造されたものと考えられる。当時、桂川右岸一帯を統括するほどの大豪族をあげるとすれば、西京区御陵にある天皇ノ社古墳(全長80mの前方後円墳)の被葬者である。しかし、古墳の規模は大して変わらないことから、地域内部の実力は大差なかったに違いない。つまりこの時期には勢力を二分するような緊張した状況があったことを思い起こさせる。
このように、乾垣内遺跡の埴輪は西暦400年頃の当該地域の社会情勢について、興味深い状況を教えてくれるのである。
エントランスには、広大な長岡京の立体地図。
朱色の柱間から展示室へ。
長岡京について詳しく学べる展示です。
中央には長岡宮の模型。
平城京や平安京などとの位置関係。長岡京は両者に引けを取らない規模ですね。
都の様子が伝わってくる展示です。
人形(ひとがた)など、お祓い道具も。
墨書土器や土馬、ミニチュアかまど。
「むこうしの古墳」という写真パネル展示も。
訪ねてきたばかりの古墳の調査時の様子がよくわかり、感動しました。
元稲荷古墳石室
その内部
こんな埴輪が立っていたのですね。
こちらは五塚原古墳の葺石(くびれ部)
寺戸大塚古墳の石室も!
前方部側の石室。
物集女車塚古墳の、土層断面も。
訪ねてきた古墳、見逃した古墳の位置がよくわかりました。
立体地図で地形把握も。向日丘陵が「長岡」の由来であることも知りました。
2024年4月下旬訪問