山代二子塚古墳(全長94m・6世紀中頃)は、「前方後方墳」との命名が最初になされた古墳とのこと。
周囲の外堤を含めると150mになる島根県最大の古墳で、出雲東部地域の最高首長の墓と言われるそう。
明治40年頃に旧陸軍の射撃場を造るために後方部が半分近く削られましたが、今は復元整備され、美しい姿を見せています。
隣接するガイダンス施設に車を停めて墳丘へ。
左手前が前方部、右後ろに後方部。
前方部の先端幅は55m。後方部先端幅(53m)より少し大きいです。
山代二子塚古墳前方部
皆さんの前には山代二子塚古墳の前方部が大きくそびえています。この古墳はたくさんの人たちが土をはこんで築いたもので、前方部の先端幅は55m、高さは7.5mの規模があります。
前方部右裾から。
真上からでは輪郭は直線ですが、横からは鞍部の曲線が味わえます。
前方部へ上がって後方部方向。
スマホ広角で。
後方部の先端側。周溝も幅広いです。
後方部上から前方部方向(西南西)を。
後方部先端側裾の北側角から。斜面の穴は土層見学施設入口です。
テラス上から広角で。右奥が前方部。
後方部に関する説明。
山代二子塚古墳後方部
後方部は幅53m、高さ9.5mの規模があります。山代二子塚古墳の後方部は今から100年ほど前に削られたため、元の形に復元しました。内部は土を盛ったようすがわかるように展示室としています。この中央北側に亡くなった王を葬った石の部屋があります。
後方部先端の直線。
見学施設の入り口。3人の少年がかくれんぼのような遊びをやっていました。
実は見学施設内に入ろうとしたときに3人目の男の子に「わっ」と驚かされたのですが、自分を友達と間違えてしまったようです。
「知らないおじさんだったんでびっくりした」との声が聞こえてきましたが、おじさんもびっくりしましたよ。
見学施設内部。かつて削り取ってしまった断面の土層を見ることができます。
色合いの異なる土(土塊?)を交互に盛っていることがわかります。
古墳についての説明パネルもありました。
6世紀の出雲
島根県では4世紀から有力者を葬るための古墳が造られ始めます。全国的には前方後円墳や円墳など丸い形を基本とした古墳がたくさん造られますが、奈良時代に架かれた「出雲国風土記」に「意宇(おう)郡」として登場する東部出雲の松江市や安来市などの地域では前方後方墳や方墳が多く造られるという特徴があります。
四角形の古墳がこの地域で多く造られたのは、このあたりを治めた豪族が代々四角い形の古墳を造る伝統があったからだという説を、ヤマト政権の規制によって前方後円墳を造ることができなかったとみる説があります。
古墳の大きさから、6世紀半ばに造られた松江市の山代二子塚古墳と出雲市の大念寺古墳た出雲地方を代表する2大豪族の墓であったと考えられています。
墳丘の南側面を後方部脇から。