免ヶ平(めんがひら)古墳は、国史跡の川部・高森古墳群の南端に位置し、古墳群で最初に築かれた赤塚古墳(3世紀後半)に続いて4世紀前半に築かれた全長51mの前方後円墳。
この前に見てきた角房古墳(全長46m)、車坂古墳(58m)、福勝寺古墳(82m)の前方後円墳は、いずれも5世紀に築かれ、その次に6世紀中頃の鶴見古墳が続く。
免ヶ平古墳の墳丘は後円部のみが残る。
現地の解説板。
免ヶ平古墳
免ヶ平古墳は、当初円墳と思われていましたが、昭和54年の調査で、前方部を南に向けた前方後円墳とわかりました。
後円部頂から、割竹形木棺を安置した竪穴式石室と、板石を組み合わせた箱式石棺の2基の埋葬施設が確認されました。
出土品
<竪穴式石室>
仿製(日本製)三角縁三神三獣鏡
舶載(中国製)二神二獣鏡
勾玉や管玉、石釧(腕輪)などの装身具
太刀や剣などの鉄製武器
斧や鎌などの鉄製農耕具
<箱式石棺>
舶載(中国製)二神二獣鏡
石釧・勾玉・刀子(小刀)などの装身具
規模
墳丘全長:51m(推定)
後円部直径:27m(復元)
前方部長:24m(推定)
周溝幅:5~15m(東側だけ)
葺石:あり
竪穴式石室:長さ5.1m、幅0.9m
箱式石棺:長さ1.9m、幅0.5m
昭和55年3月24日 国指定史跡に指定(川部・高森古墳群)
平成26年8月21日 国重要文化財に指定(免ヶ平古墳出土品)
さらに詳しい解説板は、前方後円形。
免ヶ平古墳
免ヶ平古墳は、宇佐地域では赤塚古墳に次ぐ2番目に古い前方後円墳。4世紀の後半代に築造された、九州では数少ない前期古墳の典型である。周囲には前方部先端を除いて幅約5~13mの楯形の空濠がある。墳丘は葺石されるが、埴輪はない。後円部では前方部側に石室構築時の作業道が確認された。
古墳の規模
全長約50m、後円部直径28m・高さ約4.5m、前方部長22m、前方部幅15m
右半分、主体部に関わる部分を。
遺物の出土状況
竪穴式石室
木棺内の位置では勾玉などの装身具類のほか、碧玉製釧3個が出土。うち2個は両手首の位置にあった。鏡2面・武器・農工具類はすべて粘土床と壁体との間に置かれていた。木棺安置後、壁体の構築初期段階で行った葬送儀式が窺える。頭位は東側。
石棺
頭を東に向けた女性人骨とともに、胸飾のほか両手首位置に碧玉製釧がそれぞれ1個、左胸上から鏡1面が出土した。主体部
竪穴式石室
後円部中心に位置し、東西に長軸をとる。規模は長さ5m、幅・高さとも約1mという長大なもの。床面はU字形にくぼんた粘土床で、割竹形木棺を安置した。安山岩の偏平割石を小口積みして築かれ、内側はベンガラが塗られる。
石棺
安山岩板石を用い、内側の大きさは長さ1.96m、幅約0.5m、深さが0.65m。床面は割石敷きし、粘土枕がある。ベンガラ塗り出土遺物
竪穴式石室内
木棺内部:碧玉製釧3、勾玉8、管玉大・小、ガラス玉、ガラス小玉
南壁側:斜縁二神二獣鏡1、剣3、槍1、鏃1、刀子17
北壁側:三角縁神獣鏡1、刀1、剣5、鏃2、ヤリガンナ2、斧2、鋤先1、刀子5、不明鉄器1
石棺内:斜縁二神二獣鏡1、碧玉製釧2、勾玉2、管玉小、刀子1
階段を上がって墳頂へ行くと、シャッターで保護された埋葬部があった。
手前が割竹式木簡、奥が箱式石棺の場所だろう。
別の角度から。見学できる機会はあるのだろうか。
風土記の丘に隣接する博物館では、埋葬部が復元されている。
出土した副葬品も見られる。
墳頂から東側の眺め。奥の芝生は古代ふれあい広場。
西側には眺望は無いが、60mほど先の崖下に駅館川(やっかんがわ)が流れている。
南西側についた階段を降りる。
降りて振り返って。もともとは階段に右側斜面から前方部が続いていた。
先ほど見えた古代ふれあい広場へ行くと、奥に墳丘が。
方形周溝墓(方墳?)がいくつか。
墳頂に穴があるものも。
こちらは四角形の辺の部分が少し盛り上がっているタイプ。
そのそばに解説があったので、上記が1号墳か。
埴輪を巡らした1号墳
前方後円墳には埴輪がなく、周辺の小規模古墳に用いられていることは、宇佐古墳文化の特徴の一つでs。
1号墳は「石棺」のまわりを一辺10mの溝で区画した低方墳です。溝の中から5世紀後半頃の埴輪などが出土しました。円筒埴輪が多く、口が開いた朝顔形円筒埴輪は四隅付近からみつかりました。西側の隅は溝が切れているので墓道と考えられます。また東側に家形埴輪や高杯などが出土しており、墓の正面と考えられます。このような出土状況を検討した結果、イラストや再現した古墳のようになります。(古墳の高さや形などは推定です)
発掘調査時の航空写真(東上空から)もあった。免ヶ平古墳やその先の駅館川との位置関係がよくわかる。
現在の様子。奥の緑に免ヶ平古墳がある。