上島(あげしま)古墳は、前回の国富中村古墳の約450m南南西に立地。
「高砂醤油本店」の看板下に、「上島古墳」への表示もありました。
矢印の方向へ進むと私有地の看板がありますが、古墳はまだ先。
その奥にさらに「上島古墳」とのサイン。
ここが登り口(だったはずです)
すぐに覆い屋のある石棺に到ります。
柵の間から。蓋石材はコンクリートのような感じでした。
そばにあった説明板。国指定史跡です。
国指定史跡 上島古墳
この古墳は昭和24年(1949)開墾中に石棺と石室が発見され、優れた遺物が出土して有名となった。築造されたのは古墳時代後期はじめ(6世紀中頃)と考えられる。
墳丘は急斜面に造られた径約13m、高さ約2mの円墳と推定されている。墳丘周辺からは須恵器や土師器の破片が発見されているが、埴輪や葺石は確認されていない。
埋葬施設は2つある。一つは出雲地方では類例の少ない刳り抜きの家形石棺で蓋身とも縄掛け突起を持っている。もう一つは内法は石棺とほぼ同期のの竪穴式石室であるが、遺物の埋納用と考えられている。
遺物は発見後の調査で石棺から男性成人人骨1体とともに、耳(銀)環1、メノウ製管玉9、ガラス製丸玉22、ガラス小玉152、五鈴鏡1、鈴釧1、刀子2、大刀1、金銅製板状金具6、音叉状鉄製品1、針状鉄製品2、須恵器蓋坏3組が、石室からは鉄鏃40~50、石突1が確認されたほか、2組の馬具類、鞍金具、轡、雲珠、杏葉が出土している。これらは一部が失われているが、市の指定文化財となっており平田市教育委員会で保管されている。
この古墳は近畿地方の影響を最も強く受けた出雲で最古の家形石棺を持ち、金銀で飾った豊富な副葬品を持つことなどから、当時の大和政権と密接な関係を持ったこの地域の首長の墓と考えられる。
昭和32年(1957)7月27日指定
平成12年(2000)3月 島根県教育委員会 平田市教育委員会
覆い屋の脇には石室開口部が。
中へ入れる大きさではありません。星雲のような蜘蛛の巣。
カメラを入れてフラッシュで。高さ・幅は数十センチほど。
開口部の逆側。
下記の島根県のサイトによれば、竪穴式石室と家形石棺の両者をもつ点が特異で、この地方において中期から後期に移る時期を代表する古墳とあります。
登り口に戻る前に見えた北側からの出雲平野。中央が南東で左奥に宍道湖方向。