墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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谷口古墳 佐賀県唐津市浜玉町谷口

唐津にて文化財課の方と廻った4基の古墳、最後は前回の横田下古墳の2.8㎞北東の平野部東端、城山の裾に立地する谷口(たにぐち)古墳です。

 

専用駐車場あり。左端の階段を上がります。

 

上がった尾根部分も墳丘(前方部)であったことを後で知りました。

 

突き当りが後円部。

この位置からだと説明板の先からの30mほどが墳丘のようにも感じますが、すでにこの場所の後円部上だったようです。

 

谷口古墳は、全長が77m以上ある前方後円墳。

谷口古墳
標高377mの城山から南西に延びた尾根の先端部に築かれた、全長77m以上の前方後円墳です。
後円部に長持形石棺を安置した2つの石室をもち、前方部に舟形石棺を埋納しています。
2つの石室は従来典型的な竪穴式石室とされていましたが、平成元年の調査で、前方部側に入口をもつ竪穴系横口式石室であることが判明しました。また、その際出土した円筒埴輪片等から4世紀後半代に築造されたこともわかり、竪穴系横口式石室をもつ古墳の中で最古のものであることがわかりました。
出土品には銅鏡7面、石釧11個、鉄器類、玉類等があり、長持形石棺とともに豪華で、畿内的な要素を色濃くもつ一方、横口式石室という朝鮮半島の古墳文化の流入と、その展開を知るうえで重要な古墳といえます。
唐津市教育委員会

 

陶板の説明板も。

谷口古墳をめぐる周辺の歴史的環境
玄界灘を臨む唐津平野は、大陸交渉の要所として古来より重要な位置にあり、今日まで多くの貴重な遺跡を残している。
なかでも古墳時代には、玉島川と松浦川の流域が特に重要な地域であった。松浦川流域には、双水柴山2号墳、久里双水古墳、島田塚古墳などの県下でも代表的な前方後円墳を中心として、4~7世紀にわたって多くの古墳群が造営されている。また、玉島川流域では、経塚山古墳や横田下古墳(国史跡)など、4~5世紀にかけてこの地に君臨した首長たちの墳墓が点々と築かれている。続く6~7世紀にも、特徴的な石室を持つ淵上古墳や金製耳飾りなどを出土した玉島古墳をはじめ、小さな古墳が群集して造られている。この中にあって、谷口古墳は4世紀の終わり頃に造られた最大の前方後円墳であり、経塚山古墳につづく時期のものである、古墳の形や規模、特異な石室や石棺の構造、豊富な副葬品などから、ここに葬られた人物は大陸との交渉にも関わった首長級の者であったことが知られる。
古墳の概要
谷口古墳は、十坊山の南西麓の丘陵上(標高20~25m)に造営された全長約77mの前方後円墳である。墳丘主軸は、ほぼ南北方向をとっている。後円部には、主軸に平行して東西2基の石室があり、内部に長持形石棺を1基ずつ安置する。両石室は、玄武岩の板石で構築され、南側に出入りのための横口を設けた、わが国最古段階の竪穴系横口式石室である。
また、東石室が西石室より先に造られている。その他前方部から舟形石棺1基、西側くびれ部付近から壺棺1基が発見されている。墳丘上には葺石がふかれ、家形や朝顔形の埴輪、円筒埴輪などが並べられていた。
出土遺物
本古墳では、3つの埋葬施設から副葬品が多量に出土している。特に注目されるのは東西の石室から出土した銅鏡類と碧玉製石釧(腕環)である。銅鏡では仿製(国産)の三角縁神獣鏡4面が出土しているが、県内では伊万里市杢路寺古墳の1面のみであり、九州でもこれほどまとまって出土した例は少ない。この種類の鏡は、同じ鋳型で造られたものが全国的に分布しており、本古墳の出土鏡と同じものは、岐阜県、滋賀県、大阪府、福岡県の古墳から出土している。また石釧も11個をかぞえ、っ九州では最も多い出土例である。
(表は略)

 

ここだけが後円部だとすると、小さな円墳の雰囲気。

 

背後には城山。

 

この後に訪ねた浜玉市民センターの歴史資料室でみた実測図と遠景写真。

 

最初に見たこの階段部分から墳丘(前方部右裾、右の建物の左上が後円部)のようです。

 

普通に訪ねても、この扉があるのみ。

 

扉の先には小部屋があり、さらに先のガラス扉を開けていただけました。

この下に横口(石室の出入り口)が残存している。横口は石室の両側壁を外側にそのまま延長して出入口としたものである。この横口と石室とは割石を用いた石積により閉塞されている。
写真は、石室の保存修理のために発掘調査をしたときの状況で、現在、遺構保存のために埋め戻している。


小部屋の壁にあった説明板。

東石室
前方後円墳の後円部に、墳丘の主軸に並行して2つの石室が配置されている。東石室は奥行2.93m、幅1.60mの長方形の竪穴式石室である。最大の特徴は南側に出入口を持つことで我が国における最古段階の横口式の石室として重要である。
石質内部には長持形石棺が1基安置され、棺の内外から銅鏡・玉類・石釧・鉄剣・鉄刀・鉄鏃等が出土している。

石室内部(奥壁)の状況
石質側壁に割石を積み上げ持ち送っており、合掌形の特異な構造となっている。壁面には全体に顔料(水銀朱)が塗られ、赤く鮮やかに彩られている。下方は長持形石棺である。

 

下図にある「出入口」の部分は埋められていて、その先の三角の孔から石室を覗き込むかたちになります。

 

真下に長持形石棺の蓋が、奥にその縄掛突起の先と奥壁が見えました。

 

ズームしたのですがピントが手前に。

大変貴重なものを拝見しました。
みなさまも、唐津市訪問の際には唐津市教育委員会生涯学習文化財課にお問い合わせを。(というか、これを見にぜひ唐津市へ!)

東石室の左隣の西石室は、位置を示す標柱のみ。

 

位置関係はこちら(前出の歴史資料室のパネル)

 

現地説明板。

西石室
この正面に西石室が埋まっている。明治41年(1908)に初めて発掘された際、すでに天井部や壁の大半は崩壊していたが、再調査で、東石室より遅く造られ、玄武岩の板石で積み上げた最古段階の横口式石室であることが判明した。その特徴は南側に出入りのための横口を付設していることである。東石室の横口は側壁をそのまま前方まで延長した形であるのに対し、片袖状の構造を採用している。内部には東石室と同様に、精巧に作られた長持形石棺が置かれている。

 

石棺は埋め戻されています。

長持形石棺
この西石室の棺は、6枚の板石を組み合わせて造られて蓋石が長持形をなしている。長さ約2.6m、幅約0.6~0.8mで蓋、長側板、底板にそれぞれ2個の縄掛突起が付いている。
この型式の石棺は、畿内でも大王級の古墳に採用された特別の棺として知られており、大形の前方後円墳に採用されたものが多い。九州では類例が少なく、県内でも唐津市和多田権現山古墳しかない。西石室内に埋め戻している。

 

駐車場の東の、谷口公民館脇にレプリカが。

 

側面から。頭を置く奥壁側(左)のほうが少し大きいです。

 

そして、こちらが浜玉市民センター内にある歴史資料室。

 

なんと、谷口古墳・東石室のレプリカがあります。

 

階段を上がって行くと

 

現地と同じ角度で。

 

室内側からの様子も。グレイの部分が閉塞された出入口ですね。

合掌形で天井石を持ちません。


反対の奥壁側。

 

あらためてその解説を。

谷口古墳
谷口古墳は、標高377mの城山から南西に伸びた尾根の先端部に築かれた全長77mの前方後円墳です。墳丘上には葺石が認められ、円筒埴輪片が採集されています。
埋葬主体部は後円頂部に横口式石室2基が東と西に並行して築かれ、他にも前方部で砂岩製の刳り抜き式舟形石棺1基、西側くびれ部で土師器の壺棺1基が見つかっています。石室の規模は東室が2.95m×1.6m、西室が3.16m×1.85m(奥幅)で、玄武岩の割石を使用し、天井部は特異な合掌式になっています。両室とも松浦砂岩製の長持形石棺が納められていました。
出土品は東室から仿製(日本製)三角縁神獣鏡、位至三公鏡(いしさんこうきょう)、変形四獣鏡、石釧、玉類、鉄器類、西室からも三角縁神獣鏡、玉類、鉄器類が出土し、きわめて豊富です。
この古墳の石室は、以前は竪穴式石室とされていましたが、平成元年(1989)の発掘調査で前方に入口を持つ竪穴系横口式石室であることが判明しました。
また出土した遺物等から、現存する同形式の古墳としては国内では最も古く、築造時期は4世紀末頃と推定されます。その後、各地に築かれる横穴式石室を持つ古墳に大きな影響を与えています。

 

豊富な出土品の解説。

 

出品の精巧なレプリカも見られます。


殿原寺の六観音像(普段は非公開)の実物大パネルも迫力ありました。