川部・高森古墳群で最後に訪ねたのは、古墳群中で最後に築造された鶴見古墳。
川沿いの段丘上に連なる数基とは少し離れた南東側にある。
博物館でいただいた解説シートによれば、川部・高森古墳群(宇佐風土記の丘の古墳群)の6基の前方後円墳には120を超える墳墓(方形や円形の周溝墓)があり、その規模は九州では西都原古墳群(約320基)に次ぐ規模になるそうだ。
6基の前方後円墳は主軸方向がすべて異なり、鶴見古墳を除いた各古墳の周辺に小型の墳墓が集団墓を形成していることは、古墳時代前期から中期の宇佐平野には有力なムラが複数存在し、それぞれの首長が時期毎に別々にこの地方全体の代表者となって、このエリアに前方後円墳を築造した様子がうかがえる、古代宇佐の有力氏族は古墳時代からすでに複数存在したことも確実であると書かれていた。
ガイドブックとして参考にさせていただいた「九州の古墳」の川部・高森古墳群の項には、下記の記述がある。
川部・高森古墳群では、弥生時代以外の伝統的な箱形石棺を埋葬施設とする初期の前方後円墳・赤塚古墳が築かれた。後続する免ヶ平古墳では畿内的な竪穴式石槨と割竹形木棺の組み合わせが採用され、威信財の腕輪形石製品(石釧)も伴うことなどから、石塚山古墳がある京築地域とともにいち早くヤマト政権の強い影響を受けた地域といえる。川部・高森古墳群の首長系譜は宇佐国造に繋がっていくと見られる。
ちなみに宇佐神宮はここから2㎞しか離れていない。
大池の堤の道から独立丘状の高まりを少し登ると、開口部が整備された墳丘が現れた。
近くに地面にあった解説板。
鶴見古墳
鶴見古墳は、風土記の丘にある6基の前方後円墳の中で最後に造られた古墳で、6世紀中頃のものです。長い年月の間に横穴式石室の入口上部や、奥壁が壊れ、危険な状態となってしまいました。このため、昭和59、60年度に石室と墳丘の保存修理工事を実施し、造られた当時の姿に復元・整備しました。
「造られた当時の姿」とは言っても開口部は当然異なる。
近づくと、格子の先に石室が!
その手前に解説。この下に石室内から続く石積みがあったが撮りそびれてしまった。
鶴見古墳
この古墳は、墳丘全長31mの小型の前方後円墳です。後円部に比べて極端に短くて幅の広い前方部をもつところに形態上の特徴があります。
石室は、くびれ部方向に入口をもつ片袖式の横穴式石室です。トンネル状の羨道部がなく、石室入口に直接墓道がつく構造につくられています。入口から石室の中(玄室)には、2段の框石を降りて入ります。石室石積みは、大型の板石を腰石に用い、その上部に河原石を8~12段ほど、上に行くほどせり出すように積んで、ドーム状に仕上げています。最後に天井をふさいた平な石は1.3トンもの重量があります。
墳丘全長31m、後円部径22m、前方部幅約18m、周溝幅3~4.5m
石室全長3m、石室幅約2m、天井高2.5m
出土遺物の解説も。
出土遺物
出土遺物には、馬具・刀子(小刀)・鉄鏃・銅釧(腕輪)・ガラス小玉・須恵器・土師器などがあります。これらの遺物は大きく4箇所に分かれて出土しており、この古墳を造り埋葬する過程で行われたと思われるお祭りの様子を想像させてくれる貴重な資料です。
くびれ部付近では、須恵器の大甕が押しつぶされた状況で出土しました。墳丘を盛土する前に大甕を使ったお祭りがあったことを示しています。馬具・也・釧・小玉などは遺骸に副葬したものです。その後入口を塞ぐ時に須恵器の脚付き壺と矢を置き、最後に墓前でいろいろな器に食物を供えてお祭りが行われたと考えられます。
格子の中にカメラを入れて撮影。
縦位置で。
フラッシュで。
奥壁に向かって左側。
右側を。
前方部右裾の稜線から上がらせていただいた。
前方部から後円部。
後円部先端側の南南東の眺め。
振り返っての前方部。
墳丘を東側から。右が前方部、左が後円部。
東側にあった説明板は半分読めなくなっていた。
博物館へ戻る園路にあった水飲み場は秀逸なデザイン。
ほかにも墳丘的な高まりがあったが遠望だけとした。