墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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近つ飛鳥博物館 大阪府南河内郡河南町大字東山

「近つ飛鳥博物館」は今回の旅の、ひとつの目的地。

入館料は大人310円。

展示品紹介- 近つ飛鳥博物館

 

近つ(ちかつ)飛鳥は大阪府羽曳野市飛鳥あたりの古事記にも記載のある地名で、反正天皇が難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊した際その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方(奈良の明日香村飛鳥)を「遠つ飛鳥」と名付けたのだそう。

 

博物館は予想していたより大きく、興味深い展示品や模型が盛り沢山。

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こちらは、同じ河南町(かなんちょう)内で、ここから4kmほど南にある金山(かなやま)古墳の石棺レプリカ。 

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金山古墳は非常に珍しい双円墳。次の機会に訪ねたい。

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金山古墳
倭の五王の時代、5世紀に朝鮮半島、中国大陸からもたらされた多くの技術や文化は日本列島流にそしゃくされ、6世紀に様々なかたちとなって結実し普及していく。その一つに横穴式石室がある。そしてその中に家形石棺がある。河南町・金山古墳はその典型例である。
ここでは朱で赤く塗られた大きな家形石棺が2基たちはだかる。この凝灰岩を刳り抜いて精巧に削られた石棺は右側のもので長さ2.36m、鷹さ1.53mの大きなものである。この周囲に表現する石積みは玄室とよぶ横穴式石室の中心部分。金山古墳では石棺を覆うようにしてつくられた部屋である。その左側には墳丘外部に至る通路、羨道がある。金山古墳ではこの通路にも石棺が置かれる。次々と通路と通じて埋葬される。これが横穴式石室の特徴だ。羨道のさらに左側には人の頭の大きさぐらいの石を積み上げた閉塞石によって閉じられる。
こうした横穴式石室を用いる金山古墳は墳丘外観では4世紀から主流であった前方後円形というかたちを採らない。円を2つつないだ双円墳とよぶものを採る。金山古墳のつくられた西暦600年前後、朝鮮半島、中国大陸の新しい波、影響を受け、次の時代の墳墓のスタイルを求めて胎動しはじめた、そうした頃のものである。 

 

北に1.8㎞の叡福寺にある聖徳太子墓(叡福寺北古墳)の石室レプリカもあった。まさに漆黒の、漆塗りの棺が復元される。

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その解説。

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聖徳太子墓
6世紀の後半から7世紀のはじめ、日本列島に仏教が取り入れられ、寺院が建てられ、法律の整備が進み、後の律令国家体制の骨組がつくられた。聖徳太子とよばれる人物はその時代に活躍した。
ここでは聖徳太子を映像で紹介するとともに、太子町・叡福寺境内にある聖徳太子墓の横穴式石室を復原する。石室は現在、宮内庁に管理され、立ち入りすることが出来ないが、明治の初め頃までは中に入ることができたらしく、いくつかの記録が残る。その記録と解釈ともとに復原を試みた。
高さ約3m、長さ12.5mある石室の中心部の横に穴をあけ、そこから内部の様子をのぞくことができる。石室の石は金山古墳のように自然の石肌をそのまま残したようなものでなく、きれいに表面が平らに加工される、石室の右側が入口・羨道部で、その前に大きくなった空間が玄室である。玄室の右側には二つ並んだ白い石製の台におかれた黒光りする漆ぬりの棺がある。奥の石製棺台は長さ2.424m、幅1.105m、高さ0.666mの大きなもので、聖徳太子。その前やや小さなものは夫人の菩岐々美郎膳部臣女が葬られるとされる。左側にある石の箱のようなものは聖徳太子の母、穴穂部間人皇后のものとされる。
石室の左上では2台のテレビモニターが「聖徳太子ー古墳から飛鳥へー」と題して、文楽人形演じる聖徳太子がその生涯を通じて古墳時代から飛鳥時代の移り変わりと前後の激動の時代を語る。

 

墳丘は、山の斜面を利用して造られているようだ。

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羨道側も”墳”囲気が出ていた。

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倭の五王の古墳時代から仏教文化が開花する飛鳥時代へにかけての貴重な史料や解説に圧倒されましたが、しっかり見る時間は無く…

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半日は必要ですね。風土記の丘を含めると丸一日以上。

再訪したいと思います。 

 

大きなホールの中央には、仁徳天皇陵・大仙古墳の150分の1模型。

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津堂城山古墳(藤井寺市)の水鳥埴輪(濠の島状施設部分とともに復元)

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津堂城山古墳からは「さしば形埴輪」 も。

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巨大な丸太を刳り抜いた木棺のレプリカは紫金山古墳の竪穴式埋葬施設。

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藤井寺市の野中古墳出土の兜・短甲のレプリカには、羽飾りなどもついている。

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こちらも野中古墳の出土品レプリカ。甲冑の出土状況を再現している。

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誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の陪冢、アリ山古墳(方墳・一辺45m)の、武器埋納状況の再現。

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藤井寺市の土師の里遺跡出土の、13条の円筒埴輪。

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こちらは藤井寺市の青山3号墳出土の埴輪円筒棺。

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石棺の変遷がわかるコーナー(レプリカ)

左から右へ、割竹形石棺から長持形石棺、家形石棺へと新しくなっていく。

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なにか、整然と並べられたクラシックカーを眺めているような 、そんな気分になっていました。

 

さまざまな円筒埴輪を左手に見ながら階下へ。

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右手には、仁徳天皇陵の巨大な模型。

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かつての、葺石で覆われていた雄姿。

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墳丘やテラス部、堤上に立ち並ぶ埴輪群。

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造り出しにも形象埴輪が並ぶ。

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周囲の陪塚では、建設や儀式の様子が再現されていた。

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150分の1サイズなので、人は1㎝ほど。なんとその数3000人!

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小さくとも、生き生きとしていた。

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しばらく見入ってしまいました。

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仁徳天皇陵出土の人物埴輪と椹木野衣彫刻作品とのコラボ。

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巨大な修羅(実物)も展示されていた。

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長さ8.8m、重量3.2トンの、二股のアカガシ。藤井寺市の三ツ塚古墳から出土したものを14年かけて保存処理したそうだ。

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古代の人びとは、縄をかけて巨石を運んだ証。

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屋上に上がって風土記の丘を振り返る。

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駐車場方向。

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駐車場からみる博物館。設計は安藤忠雄で平成3年の竣工。

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このあと叡福寺へ、急いで向かいました。